2023/2/07
へーゲル「哲学史講義」について、ChatGPTに尋ねてみた。
Hegel, Vorlesungen uber die Geschichte der Philosophieについて説明してください
"Lectures on the History of Philosophy" by Georg Wilhelm Friedrich Hegel is a comprehensive survey of Western philosophical thought from the ancient Greeks to Hegel's own time. The lecture series covers major figures and movements in the history of philosophy, including Plato, Aristotle, the Stoics, the Epicureans, the Neo-Platonists, the Scholastics, the Renaissance, the Enlightenment, and Romanticism. Hegel provides a critical evaluation of each philosopher and their contributions to the development of philosophical thought. He also places these philosophers within the larger context of historical development and argues that the history of philosophy is a necessary part of the overall process of human self-discovery and the realization of absolute Spirit. The "Lectures on the History of Philosophy" are considered an important contribution to the study of the history of philosophy and have been widely read and studied by scholars and students of philosophy.
「哲学史講義」は生前出版された本ではなく、いくつかの大学で行われた哲学史に関する10回の講義(ヘーゲルの原稿や学生のノート)からの再構成とのこと。とりあえず古代懐疑論の部分を読んでみた。詳細、感心。一読では意味がとれない部分(とくにヘーゲルの哲学が入った部分)も多かったが、「精神現象学」と比べれば断然「ふつう」で、好感をもった。意識が目覚めていく過程として哲学史を記述しようとしていて、これこそが精神現象学ではないか、などと思った。私がレファレンスとしているのはラッセル「西洋哲学史」だが、こちら(長谷川宏訳、河出書房、2016年)もレファレンスの資格十分と感じる。19世紀前半に書かれたもので、「哲学史」の最初のものの一つだろうが、すばらしい。
読んだ範囲でとくに印象に残った部分は、カント批判主義への批判。「一般に物自体や絶対的なものは知られない、とする批判主義は、物自体をとらえたとする知をすべて独断主義と見なしますが、それは批判主義そのものが、単一の自己意識たる自我と存在とを対立させ、それぞれをそれ自体で存在するものとしながら、両者の統一は絶対に不可能だと断ずるひどい独断主義だからです」(pp.175-176)。なるほどヘーゲルはこういう立場か。
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ドイツ観念論全体がよくわからない。野田又夫「西洋哲学史」フィヒテ、シェリング、ヘーゲルを読む。明晰な記述に感心。「かれ(ヘーゲル)が哲学史の祖である」とある。
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御子柴「カント哲学の核心」から(カントが自身の「超越論的観念論」もしくは「批判的観念論」を説明している箇所。バークリーの「独断論的観念論」、デカルトの「蓋然的観念論」(「我思う、ゆえに我あり」を疑うことのできない出発点としつつも、空間中に物体が存在することは疑わしいとする立場)と区別しようとしている)
「私はもちろん、私たちの外に物体があることを認める」
「というのは、事物の現実存在を疑うことなど、私にはまったく思いもよらないことだったからである」
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遅まきながら、野田又夫「デカルト」(岩波新書)を読む。放送講演原稿が元になっており、読みやすい。全部で25章あるが、18章「神」までで私にはよいかな。23章「心身の問題」に、「精神は舟人が舟に乗っているような具合に身体に宿っているだけなのではない」という言葉が紹介されている。「アリストテレス以来の比喩でいわれている」とあるから、アリストテレスの「魂について」が初出なのだろうが、デカルトも「方法序説」や「省察」でそのように書いているとある。「機械の中の幽霊」の比喩を思い出し、おもしろかった。機械の中の幽霊のようにイメージしてはいけないよ、がデカルトの本意だったことになる。しかし、あなたの思想を追っていくとそうイメージせざるをえないですよ、が後世の指摘か。
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坂本尚志「バカロレアの哲学」日本実業出版社、2022年、を読む。フランスのリセ(高等学校)が哲学教育に力を入れているのは有名。それをわかりやすく解説してくれている。リセ哲学教育の最後は哲学論文(デイセルタシオン)作成だが、「思考の型」というキーワードを使って説明。試験ではどのような問題が出るのかに興味があったが、たくさん例を挙げてくれていて参考になる(本書で取り上げられているのは、1.労働はわれわれをより人間的にするのか。2技術はわれわれの自由を増大させるのか。3権力の行使は正義の尊重と両立可能か)。論文作成において求められる語数だが、Chat君に尋ねたところ、「バカロレア試験の小論文は、一般的に150-350語程度の短いエッセイが求められます。これは、英語で書かれた場合、約300-700語程度に相当します。ただし、試験の具体的な指示によって異なる場合がありますので、必ず試験案内を確認してください」とのこと。4時間かけて書くそうだ。私は米国流のエッセイの書き方指導をしているが、バカロレア小論文では、主張に対する反対意見の吟味が不可欠とされているところが異なるようだ。バカロレア小論文では結論は「結論部」に置かれるようだ。米国流のエッセイは「米国版ゆとり教育の結果」という説明もあった。俳句は最小詩型の一つだが、米国流のエッセイは最小論文として意義はあると思う。最小形からの発展形の一つとして仏流デイセルタシオンを位置づけることもできよう。
中世スコラ哲学の授業形態を思い出した。「討論」(Disputatio)である。トマス・アクィナスの「神学大全」はそれに沿って書かれている。次は山田 晶訳からの抜き書き(アレンジあり)。
一般型
問題 AはBであるか
(AはBであると言いたい)
AはBでないように思われる。そのわけは、
1(異論1)
2(異論2)
しかし反対に…
答えていわなければならない: AはBである…
それゆえ
異論1には次のように言わねばならない
異論2には次のように言わねばならない
例
問題 神は存在するか
神は存在しないように思われる。そのわけは
異論1:悪が存在する。ゆえに神は存在しない。
異論2:
しかし反対に、「出エジプト記」では、神御自身の口から、「われは在りて在る者なり」といわれている。
答えて言わなけばならない。神が存在することは、5つの道により示されうる。
1 第一の道(第一動者)
2
3
4
5
それゆえ
異論1には次のように言わねばならない
異論2には次のように言わねばならない
主張に対する反対意見(異論)を先に挙げたあと、主張を述べる。そしてその主張の観点から反対意見の問題を指摘する、というスタイル。
*Chat君に「討論」についてたずねてみた。
Chat君
中世の大学においては、討論(Disputatio)と呼ばれる授業形態が一般的でした。討論は、講師がある主題に関する問題を提示し、学生たちがそれについて意見を交換する形式で行われます。一般には、以下のような手順で進められます。
問題の提示
講師がある主題に関する問題を提示します。例えば、「神の存在は証明できるか」といった問題が提示されることがあります。
引用の読み上げ
問題に関する引用文献を読み上げます。これにより、学生たちは討論の出発点となる情報を共有することができます。
質問者の選定
講師が質問者を選びます。質問者は、主題について質問を出し、その質問に対して他の学生たちが答える形式で進められます。
議論
質問に対して答える形式で、学生たちが議論を行います。このとき、相手の意見を尊重し、正確で論理的な議論が求められます。
結論の導出
討論の終盤には、まとめ役がまとめを述べ、討論の結論を導き出します。
討論は、知識を深め、議論力を養うための非常に重要な授業形態として、中世の大学で広く採用されていました。また、討論を通じて学生たちは、相手の意見を尊重するという大切な倫理観念を身につけることが期待されました。討論は、中世大学の教育の特徴のひとつであり、現代でも哲学や言語学などの分野で活用されています。
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ラッセル(高村夏輝訳)「哲学入門」(ちくま学芸文庫)を入手。昔(40数年前!)中村秀吉訳で親しんだ本。第1章現象と実在、第6章帰納について、がすっきりしているというのが私の記憶。他は標準的ではなく(執筆当時のラッセル自身の哲学の展開)難解と思った。標準的な第1章は哲学入門としては最良と言えると思う(忙しい人はこの章だけ読んでもよいかな)。昔印象的だった「参考文献」を久しぶりに見た。入門を終えた後は、古典を直接読むことをラッセルは推奨している。プラトン「国家」、デカルト「省察」、スピノザ「エチカ」、ライプニッツ「モナドロジー」、バークリ「ハイラスとフィロナウスの三つの対話」、ヒューム「人間知性研究」、カント「プロレゴメナ」があげられていた。納得の選択。
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エンゲルス(森宏一訳)「フォイエルバッハ論」(新日本出版社、1998年)ー正式には「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結」(1888年)ーを読む。ヘーゲルに対するバランスのよい、現代的と言ってもよい見方が述べられている。私はマルクス主義者ではないが、有益な読書だった。19世紀哲学がよくわかる著作、コンパクトであるのもよい。私の「西洋哲学史講義」もここまで行きたいものである。ラッセルの「参考文献」リストにこの本を追加してもよさそうだ。よくよく考えれば、私にとってもっと若い時期に目を通すべき本だった。
3/20
下村寅太郎「来るべき時代の設計者」(「ライプニッツ」中公クラシック所収)を読む。「ライプニッツ」はよい編集の本。大学の先輩の方々が編んでいる。不勉強だったので求めた「モナドロジー」だったが、コンパクトなのに驚いた。「来るべき時代の設計者」は、碩学による魅力的な文体でライプニッツの生涯と思想が綴られている。最後の段落でヘーゲルとのつながりがわかり勉強になった。野田又夫の「カント」における解説同様、碩学による解説は参考になる。他にもあろう。それらをネット上に配信してもらえればよいのだが・・それが無理なら、それらを集めた本を出版してもらえれば助かる。現在のWikipedia記事よりクオリテイはだいぶ上になりそうだ。
仕えていたヴェルフェン家の家系史の編纂の準備のために、ライプニッツは1687年から3年にわたる旅行をしている。「ローマでは教皇宮廷、学界、とくにイエズス会派の人たちと往来し、イエズス会派の中国伝道に深い興味をもった。彼の中国に関する知識はこれが機会になった。「最近の中国事情」(1697)や中国哲学の概要などの著作がある。これらにおいて、彼の中国に関する知識の豊富さと深さを推察することができる」(28-29ページ)。「とくにイエズス会派の人たちと往来し、イエズス会派の中国伝道に深い興味をもった」は私にとって興味をひく記述。陽明学あるいは心学のことをライプニッツは知っていた(無理のない推測だろう)。ライプニッツに先立つデカルトについても同じようなことがあったと推測しているのだが、これについては今のところ証拠なし。
2024/1/09
「秘本哲学講義録」の哲学各論版を別ブログにアップしました。
https://philia17.blogspot.com/
すべて「工事中」です。ご批判歓迎です。
2/02
木田元「反哲学入門」(新潮文庫、2010年)を読む。以前ざっと読んだから再読。興味深く、参考になった(とくに「第5章「反哲学」の誕生」)。
「反哲学」は後期メルロー・ポンティが使った言葉。しかし、その概念を実質的に使ったのはニーチェ。「反哲学」というときの「哲学」はプラトンの哲学、プラトニズムを指す(ニーチェも「哲学」をあらわす言葉として「プラトニズム」を使っていた)。超自然的原理(イデア等)を立てて自然を見ていくのが「哲学」。ニーチェは、彼の時代のヨーロッパの病根が哲学つまりプラトニズムにあると考え、それを乗り越える思想を提唱しようとした。乗り越えのための基盤になると彼が考えたのはソクラテス以前の哲学者たちの存在観。かれらは、万物を(静的なものではなく)「成り出でたもの」、「生成してきたもの」と見ていた。ニーチェの「反哲学」の思考を受け継いだのがハイデガー、メルロー・ポンティ等の現代の思想家たち。
木田さんは、メルロー・ポンティの用語を受け継ぎ、「反哲学」という語を使っているが、正確には「反プラトニズム」かな。プラトニズムが西洋哲学全体をカバーする、もしくはそのコアであると考えて「反哲学」としているようだ。反プラトニズムなら19世紀のニーチエを待たずに古代ギリシャにある。エリスのピュロン以来の伝統である。
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コロナ陽性、2度目。2日前から隔離、寝たきり生活に入る。徒然なるままに、納富信留さんの講義動画「史上最大の問題作!全米大学生の必読書、プラトン『ポリテイア(国家)』とは」等をはしごする。プラトンの『ポリテイア(国家)』を読む、という講義なので、二つのデータを使ってこの本の重要性が指摘されている。
一つは英国「ザ・ガーディアン」紙の人気投票。ただし2001年のもの。原記事があった。それを紹介。
The 10 greatest philosophical works
1 Plato, The Republic
2 Immanuel Kant, The Critique of Pure Reason
3 Charles Darwin, The Origin of Species
4 Aristotle, The Nicomachean Ethics
5 Rene Descartes, Meditations on First Philosophy
6 Ludwig Wittgenstein (Philosophical Investigations)
7 Aristotle, Metaphysics
8 David Hume, An Enquiry Concerning Human Understanding
9 Friedrich Nietzsche, Beyond Good and Evil
10 Thomas Aquinas, Summa Theologica
いま一つは「全米トップ10の大学」で読まれている哲学書トップ10。1位に「国家」が入っている。2位がホッズズの「リヴァイアサン」。
英米の大学で「国家」が学生が読むべき本として最重要視されていることがわかる。50年前の自分に対し、どの哲学書を読むことをすすめるだろうか。国家(プラトン)、形而上学(アリストテレス)、神学大全(トマス・アクイナス)、省察(デカルト)かな。
追記
10年後の「ザ・ガーディアン」紙の同様の企画
Philosophy 12・The Symposium by Plato (c380 BC)・Meditations by Marcus Aurelius (c180)・Essays by Michel de Montaigne (1580)・The Anatomy of Melancholy by Robert Burton (1621)・Meditations on First Philosophy by Rene Descartes (1641)・Dialogues Concerning Natural Religion by David Hume (1779)・Critique of Pure Reason by Immanuel Kant (1781)・Phenomenology of Mind by GWF Hegel (1807)・Walden by HD Thoreau (1854)・On Liberty by John Stuart Mill (1859)・Thus Spake Zarathustra by Friedrich Nietzsche (1883)・The Structure of Scientific Revolutions by Thomas Kuhn (1962)
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哲学は西洋の偉大な文化遺産、人類の見てきた夢。音楽、絵画、数学と同様。現代の人間の教養の基盤。それを学びたいとなったとき、どこから始めるか。私の場合は五里霧中、右往左往の中、ラッセル「哲学入門」の「帰納の問題」の章を読み、「一寸先は暗闇」は受け入れがたい結論と感じ、その反駁から始めた。その前に、「存在と時間」や「純粋理性批判」はかじったものの、?。大体「純粋犠牲概念の演繹」って何?「演繹って?」となって、実質的な哲学事始めはその論駁の試み。その後、「横道」に逸れ幾星霜。還暦を過ぎてから、その突破口から哲学全体を理解しはじめた。1点から始めて全体を見ていく、というやり方。人により出発点は異なるだろうが、1点突破は有効なやり方だと思う。全体を理解してから部分を理解していくというやり方もあろうが、私には全体を理解する機会がなかった。哲学史の本も何冊か読もうとしたが、私には退屈だった。