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笠間の県立陶芸美術館を訪ねた。
![]() 二度目。 午後サッカーの中田英寿のトークショーがあったのでにぎやか。 今回は,少しじっくりコレクションを見た。 遅まきながら板谷波山に気づく。 すばらしい。 帰宅後ネットで確認したところ, 日本近代陶芸の第一人者で「陶聖」と呼ばれているとのこと。 不勉強で知らなかったが,納得である。 波山については http://www.yakimonoclub.com/tt-d1.html などで概要を知ることができる。 「HAZAN」という映画もあるそうだ。 見たいものである。 何度でも足を運びたいところができた。 (写真は他美術館所蔵品) 教育の質向上は学修時間の増加から 中教審大学教育部会 (3/8)(http://www.asahi.com/edu/university/toretate/TKY201203080554.html) ・・・この現実認識をもとに、素案は大学の教育改革の柱として学修時間を中心にすえた。量はもちろん、学生が自主的に予習・復習をする「主体的な学び」の確立を目標とした。・・ む?なぜこういう結論になる? ひと月前には, 「相当の退学覚悟を」評価基準骨子案、大学の質向上促す (2/15) (http://www.asahi.com/edu/university/toretate/TKY201202150239.html) ・・大学分科会会長の前慶應義塾大学塾長・安西祐一郎氏は「相当な退学者が出ることを覚悟するつもりで評価の基準をつくらなければならない」と述べ、大学教育の質の低下に対する危機感を強調した。・・「根拠があるわけではないが」としつつ「学生の2割」という数字を挙げて「相当の退学者が出ることを覚悟するくらいで評価の基準をつくらなければならない」「大学の機能別に基準をつくり、『そこまで達しないと学生ではないよ』と示したい」などと訴えた。 とポイントをつく指摘があったのに,それが「学修時間を増やすこと」に変えられている。 「力量のある教員がしっかりした授業を行い,相当自習しなければ単位がとれないし,卒業もできないように変える」しか方法はないのに,骨も何もない「主体的な学びの確立」がうたわれている。 これでは部会の責任を果たせまい。 ことばの遊び。こちらが恥ずかしくなる。 ほとんど効果のない「教育改革」運動がまた行われようとしている,と評したら酷だろうか。 * * 学生には恐怖? 「GPA」、半数近くの大学で(http://sankei.jp.msn.com/life/news/110926/edc11092615140000-n1.htm) 2011.9.26 ・・大学入試のハードルは全体的に低くなり、さらに学力試験のない推薦入試やAO入試などによる入学者の割合が増加したため、大学入試だけで大学生の質を保証することが困難になってきました。 そこで注目されつつあるのが、「入学するのは簡単だが、卒業するのは難しい」と言われている米国の大学が採用している、GPAという「厳格な成績評価」です。簡単に言えば、各科目の成績を合計して平均点を割り出し、それが基準に満たなかったら進級・卒業させないという仕組みで、ほとんどの科目で一定レベル以上の成績を取ることが厳しく求められます。 GPA(Grade Point Average) いい記事 ![]() 苦戦が伝えられるソニーに関する朝刊記事を読んでいて,アップルのスチーブ・ジョブスがテクノロジーにおけるリベラル・アーツ的観点の重要性強調していたという話を知り,ネットをあたってみた。 Steve Jobs: 'Computer Science Is A Liberal Art' (http://www.npr.org/2011/10/06/141115121/steve-jobs-computer-science-is-a-liberal-art) に彼の1996年のインタビューがのっていた。次はその一部。 On bringing liberal arts sensibilities to "geek" technology "I think our major contribution [to computing] was in bringing a liberal arts point of view to the use of computers. If you really look at the ease of use of the Macintosh, the driving motivation behind that was to bring not only ease of use to people — so that many, many more people could use computers for nontraditional things at that time — but it was to bring beautiful fonts and typography to people, it was to bring graphics to people ... so that they could see beautiful photographs, or pictures, or artwork, et cetera ... to help them communicate. ... Our goal was to bring a liberal arts perspective and a liberal arts audience to what had traditionally been a very geeky technology and a very geeky audience." iPodやiPhone, iPadが登場する以前のインタビュー。 リベラルアーツ的観点とテクノロジ―の交差こそが創造をもたらすという哲学に基づいて,それら魅力的な商品群が構想,製造されたことになる。 禅,哲学,絵画,写真,音楽等のliberal artsは重要ですよ。 facebookやPinterestを見ていると,この哲学の延長上に開花していることがよくわかる。 ユネスコの「平和のとりで」もここで実現するかも。 "geek" technology(数学,物理学に基づく工学)は普遍性が高いからわかりやすいが,それだけやっていてもだめですよ。 多くの人間が使うのだから,リベラルアーツの自由で繊細な精神との交差が大事。 傾聴に値する哲学だと思う。 http://www.thedailyriff.com/articles/steve-says-technology-liberal-arts-innovation-648.php も参考になる。 *リベラルアーツ:ja.wikipedia.org/wiki/リベラル・アーツ 原義は「人を自由にする学問」、それを学ぶことで非奴隷たる自由人としての教養が身につくもののことであり、起源は、古代ギリシアにまで遡る。・・ ![]()
Amazonを見ていたら次を知る。
N響85周年記念シリーズ:ベートーヴェン:交響曲第3番、5番、6番、7番/ホルスト・シュタイン (NHK Symphony Orchestra, Tokyo) シュタインの本領発揮、超充実のベートーヴェン交響曲 [1985 年11 月6 日/ NHK ホール(CD1)、92 年4 月26 日(CD2) /サントリーホール、89 年2 月3 日/ NHK ホール(CD3)]STEREO NHK 交響楽団と最も縁の深い指揮者のひとりホルスト・シュタイン。ワーグナーやブラームスをはじめ、幅広いレパートリーを聴かせてくれましたが、ベートーヴェンの交響曲の名演ぶりが今日でも語り草となっており、発売を希望される声の多さに今回4曲をラインナップしました。これが予想以上の凄さで、さすがドイツ本流のシュタインならではの重厚さと迫力、息つく暇もなく全曲を聴き通させてしまう充実ぶり。数あるシュタインの録音中でも白眉と申せましょう。 ふむ。第3番英雄は当時エアチェックしてカーステレオで聴いていたもの。事故とともにテープを失い,シュタイン の他の英雄を探しもとめたこともあった。しかし,N饗との演奏が上だった。どなたかを記念する演奏会での演奏だった。「音が違う,ぎっしり詰まった音」と解説者の磯山さんがコメントしていたのをおぼえている。4月28日発売とのことだが,うれしい。HMVが安いようだ。
友人のfacebookを見ていたら,自然にPinterestに導かれた。圧倒的に魅力的なphotos。これは素晴らしい,と登録することに(現在登録中)。気づいて確認したところ,前の記事で?であったのがPinterestだった。不覚。脇役扱いは申し訳ない。魅力的なサービス,と感心。
「アメリカにおけるフェイスブックのユニークユーザー数は1億5000万人。これは人口の実に半分、オンライン人口で言えば65%以上に相当します」と話すのは、シリコンバレー在住のジャーナリスト、加藤靖子氏。これ以上のびしろがなさそうなフェイスブックに代わり、台頭目覚ましいのが「Pinterest」だ。「フェイスブックのコンセプトは『すでに知っている人と繋がる』というもの。これに対して『同じ関心事や属性を持つ人同士を新たに繋げる』SNSに人気が集まっているんです」(加藤氏)...
(http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20120402/zsp1204021107006-n1.htm) これは新しい「Pinterest」をアッピールする記事。 「一周遅れ」の私としてはfacebookの現状についての前書きのほうに興味があったので引用させてもらった。 アメリカ人の半数が使っているというのは大変な普及率。 昨年6月私もよくわからないまま加入。 アメリカの若い友人がはじめたので,彼との連絡用のつもりだった。 それがひょんなことから一挙に拡大。 「タイムライン」を知り,それにあわせてここ数日facebookの整備に熱中。 NZ在住の友人と仲良くなったら,このネットワークを通じてラテンアメリカの方々の暮らしと接続。 南半球を中心に世界が広がった感じだ。 あっという間。 こうなってみると自分の勤め先がfacebookをもたないのは不自由。 観光業界はもちろん,組織たるものfacebookに登録すべき(極論?)。 一週間前には関心ほぼゼロだったのに,この豹変。 これからは,赤道付近から南半球にかけての時代だ!などと勝手に考えはじめている。
1週間ほど前からニュージーランド・ロトルアに滞在している。
昨日は休日だったので,レインボー・スプリングス・キウィ・ワイルドライフ・パーク(Rainbow Springs Kiwi Wildlife Park)にでかけた。 ロトルア市中心部からバスで20分くらいの所。 キウィ・エンカウンター(Kiwi Encounter)内の暗がりで,キウィ(Kiwi)に会った。 キウィは飛べない鳥。絶滅危惧種。 ![]() 天敵のいない環境に適応していることから、ネコやネズミなどの移入動物の影響で個体数は減少傾向にあり、元から個体数が少なかったこともあり、絶滅の危機にある。人間を警戒しない。好奇心で人間の後をついていくこともある。「キーウィー」と口笛のような声で鳴くため、ニュージーランドの先住民であるマオリ族からキーウィーと名付けられた(Wikipedia)。 マオリ族の寓話 ある日、森の王タネ・マフタは森の中を歩いていた。彼の子である木々はとても病んでいるかのように見えた。地面で暮らす虫たちによって食べられていたからである。あまりにも深刻そうであったため、彼は兄であり、空の王であったタネホカホカにこのことについて相談をした。「このままでは森が死んでしまう」と。 これを聞いたタネホカホカは空に住む鳥たちを一堂に集め、地上に降りて虫を食べて森林を守ってくる鳥を募った。 しかし、どの鳥も口を開くことはなかった。そこで、彼はテュイ、プケコ、ピピファロロアらに順に事を頼んだ。しかし、彼らはそれぞれの理由を述べ、彼の要請に応じなかった。そこで彼はキーウィに頼んだ。するとキーウィはこの王の要請に応じた。「参ります」と。 二人の森と空の王はこれにとても喜んだ。そこで、彼らはキーウィに確認をした。元来、キーウィは美しい羽毛、翼を持っていた。だが、地上で暮らすにはその翼を失い、強靭な脚をもつ必要がある、と。それでもキーウィは「参ります」と言った。これに対しタネホカホカは次のように述べた。「君の大いなる犠牲によって、君は森の中で最も愛される鳥となるだろう」 こうして、キーウィは今のような姿となり、王の要請に応じなかった鳥たちはそれぞれ罰を受けることとなった。 (Wikipedia) うむ,立派。天使のような鳥だ。 ニュージーランドの国鳥にふさわしい。 賢治の童話の主人公にもなれる。 Kiwi fruitsはここから命名されたとのこと(形,色が似ている)。 ニュージーランド人は自分たちのことをKiwiと呼ぶ。 The kiwi is an endangered, flightless bird which is native to New Zealand. Nowadays New Zealanders everywhere are known as kiwis! Kiwi husband=奥さんのために家事をよくする夫 キーウィの卵はメスの1/4くらいの大きさ。お産が大変。だから,お産の後はオスががんばる。 ふむ,lovely. あっという間に「ニュージーランド大好き」派に変身。 そのうちKiwiかTuiあるいはMoaに進化するかも。
ウォズが語るジョブズの思い出―iPad3発表の日に
(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1203/09/news014.html) アップルをジョブスとともに立ち上げたスティーブ・ウォズニアックのインタビュー。 ナイスガイ。 ブーチ あなたが成し遂げたようなイノベーションを、大企業が起こすには、どうすべきだろうか? ウォズ 会社が大きくなると、なにをするにも動きが遅くなる。そして確実な成功を求められる。アップルにだって、何をするにも40ページもの書類を提出しなくちゃいけなくなった時代があった……。でもそれじゃだめだ。社員から最大限の結果を引き出したいなら、彼らが仕事に対して“個人的に重要な意味”を持てるようにしなくちゃいけない。 などすばらしい。文句なく重要な哲学が含まれている。 ブーチ ジョブズに会った時のことを教えてほしい。 ウォズ 1970年頃かな。当時僕は「世界中のあらゆるコンピュータを自分で作れる」と思っていた。3軒隣の近所の友人に紹介されたのがジョブズ。・・ 若いってすばらしい,などと月並みすぎて何であるが,その通りだ。 ジョブズは友だちにめぐまれた。
知的好奇心
何だろう? 疑いをもち問う。・・ 問いを深めていくと,限界近くの問いがあらわれる。 時間に始まりがあるのか,ないのか。空間は有限か,無限か。どのように振る舞うのがよいのか。人生に意味があるのか,ないのか。・・ それら知識や常識の限界付近で発生する問題に対する解答の試みが哲学。 ターレスやピタゴラス,ソクラテス,プラトン,アリストテレスがそれを行った。 これが狭義での哲学。 そのような問いへの解答,思索,討議の結晶も哲学と呼ばれる。 とりわけ何をもってよしとするかについての基本的な信念の組が,その持ち主である個人や組織の哲学。 これが広義での哲学,日常的意味での哲学。 一般的な需要が多いのが,この広義での哲学。 個人や組織は生きのびるために,よく生きるために,あるいは成功するためにそれを必要とする。 よく生きた人,成功した個人や組織の哲学が何であるかは興味の対象となる。その反対も興味の対象となる。 お手本となりうるからである。 よき哲学は力強い行動の基礎になる。 ビジネスマン向けの雑誌やサッカー雑誌などにはこれに関連する興味深い記事が多い。 しばしば非常に魅力的。 この後者の意味での哲学はとりわけ哲学の「プロ」には意外に重視されてこなかった。 「人生哲学」など古い,というわけである。 しかし,これは誤りであると思う。 組織ー企業やスポーツ団体の哲学については研究開拓する余地が多いと思う。 (under construction)
中村彰彦「跡を濁さず―家老列伝」(文芸春秋,2011) を読んだ。
中村さんは会津物の名手として知られており,私も愛読者の一人。 先日「花ならば花咲かん」を読んだばかり。 これは,財政赤字に苦しむ江戸中期の会津藩を立て直した田中玄宰(はるなか)の物語。 さすが会津の名家老と感じ入った。 藩祖名君保科正之の遺訓のたまもの。 (彼のすぐれた将軍補佐が江戸時代の安定に大きく貢献したのだろうと考えている) 今回の「家老列伝」でとくに気に入ったのも,戊辰戦争で勇名をはせた会津藩の若き家老山川浩の物語。 西南戦争時の 薩摩人みよや東の丈夫(ますらお)が提げ佩く太刀の 利(と)きか鈍きか は見事。 西郷軍の猛攻に対し熊本城を死守した土佐の谷千城(たに たてき/かんじょう)とのかかわりは知らなかった。 東京帝国大学総長にもなった山川健次郎は彼の弟。 奉天でロシア陸軍を破った大山巌元帥夫人捨松は妹。 捨松は津田梅子らとともにアメリカに派遣された少女のひとり。アメリカ「セブンシスターズ」の一つヴァッサー大学卒業とのこと。 興味をもってVassar CollegeのHPを訪問してみた。 大学150年の記録写真。 あちらの大学生活の豊かな記録でうらやましく思った。 (このようなところで学びたい) その一枚に目が止まった。 ’Princess Oyama’とある。 プリンセスオヤマ?どこか東洋のお金持ちの国の妃かと思って,文字を追ったところ, Stematz Yamakawa, later to become Princess Oyama, was the first Japanese student to graduate from Vassar, 1882. とある。 捨松さんだった。 Vassar College最初の日本人卒業生。 卒業式では総代をつとめたとのこと。 会津若松城の落城も経験しているから,覚悟も違ったのだろう。 ![]()
カントが『純粋理性批判』で展開した「純粋理性のアンチノミー(二律背反)」論は名高い。
それは, 世界の時間的・空間的無限性 物質の分割可能性 自由の存在 神の存在 のそれぞれについて,互いに両立しない2つの命題があり,それぞれの命題が矛盾を含む,という指摘である。いずれかが正しいはずなのに,両方とも正しくない,と結論されてしまう。 具体的にはアンチノミー(Antinomie)は次の4種類である。 1 世界は有限(時間的、空間的に)である/世界は無限である。 2 世界におけるどんな実体も単純な部分(それ以上分割できないもの)から出来ている/世界に単純なものなど存在しない(物質は無限分割可能である)。 3 世界には自由な原因が存在する/世界には自由は存在せず、世界における一切は自然法則に従って生起する。 4 世界の内か外に必然的な存在者(世界の起動者=神)がその原因として存在する/世界の内にも外にも必然的な存在者など存在しない。 「/」で区分けした左右2つの命題は互いに相手の否定となっていて,論理的にすべての可能性をつくしている(世界は有限であるか,有限でないかかのいずれかであり,第三の可能性はない)。 2つの可能性はどちらも矛盾に導くという議論はどのようなものか? 1の世界の時間的・空間的無限性について,上村芳郎氏が次のように要約しておられる(http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html)。 「世界は時間において始まりを持ち、空間からみても限界に囲まれている」というテーゼ(の前半)の証明は、次のようにして(背理法を用いて)行われる。「なぜなら、世界が時間において始まりを持たないと仮定せよ、そうすれば、与えられたどの時点までにも永遠が経過し、従って世界における諸事物の次々に継起する諸状態の無限の系列が流れ去ったことになる。しかしながら、系列の無限性というのは、継続的な総合によっては決して完結されえないという点にその本質がある。それゆえ、無限の流れ去った世界系列というのは不可能であり、よって、世界の始まりは世界が現に存在するための必然的な条件である。これが最初に証明されるべきことであった」(*) (*)について上村氏は次のように解説しておられる。 「直訳しましたが、普通に読むと理解できないでしょう。「無限」という言葉の意味が、現代の用法とは違うからです。カント(あるいはカントが批判している形而上学者たち)は、「無限(unendlich)」という言葉を、文字通り、「終わり(end)のない」=「どんな限界(制約)も持たない」という意味で使っています。そういう意味では、ある時点で(その時点で終わっていますから)「無限の世界系列が流れ去った」というのは、矛盾しているわけです」 逆に、 「世界は始まりを持たず、空間においても限界を持たない。時間という点からみても、空間という点からみても、無限である」というアンチテーゼ(の前半)の証明も、次のようにして行われる。「なぜなら、世界が始まりを持つとしてみよ、そのときには、始まりというのは一つの現存在なのだから、それ以前に、物が存在していない時間が先立っていたことになるが、そうすれば、世界が存在していない時間が、つまり空虚な時間が先行していたことになる。しかしながら、空虚な時間においては何らかの物が発生するのは不可能である。……それゆえ、世界においては諸物の多くの系列が始まりうるが、世界そのものはいかなる始まりも持ちえない。それゆえ、世界は過去の時間という点からみて無限である」 従って、カントによれば、正反対の結論が、どちらも証明され、どちらも否定されることになる。言い換えれば、「世界は無限だ」と仮定したら、その逆の「世界は有限である」という命題が証明され、「世界は有限だ」と仮定したら、その逆の「世界は無限だ」という命題が証明されることになる。Aを仮定したら¬A、¬Aを仮定したらA、論理学では、これを矛盾と呼ぶ。 矛盾の原因は何か? 上村氏の解説をさらに拝借すると次になる。 「簡単に言ってしまえば、時間と空間というのは、それを介して対象が我々に与えられる感性の形式にすぎないのに、それを実在する対象の形式と思い誤ってしまう点に、こうした矛盾が生じる所以があるのである。つまり「無限」を「実無限」として理解したらダメだということである。こうして、カントは、自らの立場を、「超越論的観念論」と呼ぶことになる」(上村氏からの引用終了) 要約すれば,カントの議論は全体として次のかたちをしている。 AまたはnotA (排中律) Aの場合:notAが導かれる これは矛盾 notAの場合: Aが導かれる これは矛盾 いずれにせよ矛盾 解釈:そもそも時空等を実在と考えるからこうなる。 各場合矛盾が証明されるというカントの議論をそのまま受け入れることはできないだろうが,興味深い議論ではある。私はこの議論を,ヒュームの懐疑論的論証(記事hume「一寸先は闇?」を参照)への一つのレスポンスとみている(この見方は私だけのものではない。あまりみないが,まあふつうの見方か?)。 ヒュームの論証は,観察経験とその記憶を超えた経験的信念は正当化されるか否かを問題にしたものである。一つの信念は別の信念により正当化されなければならないと考えると,正当化系列を考えざるをえない。それについて2つの互いに排他的な可能性がある。 Aの場合:正当化系列はendless not Aの場合: 正当化系列にはendあり いずれの場合も当該信念は「正当化されない」,と結論するのがヒュームの論証の基本的構造である(Aの場合は明らかと考えたのだろうか,表面にはあらわれない)。 どの場合も「経験的信念は正当化されない」という常識離れした困った結論がえられるというのがヒュームである。カントでは,いずれの場合も「論理的矛盾」というさらに困った結論がえられるという話になっている。カントがヒュームを読んで「独断のまどろみから目覚めた」と述懐しているという話は有名である。カントは,正当化の正当化を求めるという「純粋理性の自由な行使」が袋小路,破壊的結論に導くことをヒュームから読み取ったと思う。同様の構造をもつ議論が哲学の伝統の中核にあることに気づき,それを4つのアンチノミーとして整理した。ヒュームの論証には多くのタイプのレスポンスがあるが,カントのアンチノミー論はその中でも最も豊かなレスポンス,クリエイテイブなレスポンスであると私は思う。 「カント自身が、アンチノミーという深刻な事態に気づいたのを直接のきっかけとして、『純粋理性批判』の執筆に思いいたった、と率直に告白している」(「カントはよみがえる/石川文康」http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/193/)とのことである。発想の道筋としては,ヒュームの懐疑論的論証ー4つのアンチノミーー超越論的観念論(純粋理性批判),という筋がストレートに通る。 より拡大された問題の枠組みの中でカントが提出した解決策ー自然が知性に従っているという超越論的観念論(カントの言う「コペルニクス的転回」ー哲学的天動説?)ーについてラッセルは『西洋哲学史』の中で,独断から目覚めたカントは自分用のハンモックをつくってまたぐっすり寝入ってしまった(この表現は不正確です),といった評価を下している。これについては同意。カントは,ヒュームが自分の独断論のまどろみを破ったと告白しながら,ヒュームについて,それは「哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論という別の浅瀬に座礁させた」と批評している。ラッセルの批評はこれへの皮肉だろう。 (under construction)
池波正太郎 (著) 。
文庫本があるようだが,全集を借りてきて読んだ。 「信濃の獅子」真田信之の物語。 信之最晩年93歳,家督相続をめぐり,幕府老中酒井忠勝と対決,という話。 「真田太平記」完結編とも言える作品。 ぼけてきたのでよくわからないが,昔読んだ記憶がある。 池波作品にはずれなし。 この本も面白かった。 真田太平記で最期に生き残るのは信之,すべてが終わってみると真田太平記は信之の物語と言える面がある。 見事な武将,名君であり,私も彼のファンである。 信長に「花実兼備の勇士」と激賞された本多忠勝の婿だけのことはある。 家康の信頼をえるのも当然。 というわけでいまだに真田太平記の余韻にひたっているわけだが,その後ネットをたどって読んだのが真田幸村の物語。 以前書いたが,大阪夏の陣での伊達家とのかかわりは興味深い。 最期の一戦の前夜の伊達政宗,片倉小十郎とのかかわりだ。 幸村は「伊達騎兵隊」との激闘の後,娘と次男を政宗に託そうとした。 長子大助を秀頼のもとに送ったし,最後の最後まで子息に配慮するあたり,さすが信之の弟,人物の質が高い。 夏の陣最期の2日はそれ自身ドラマ化,物語化に値すると思う。
ハイゼンベルクの不確定性原理を破った!小澤の不等式を実験実証 ...
小澤さんの不等式はハイゼンベルクの不確定性原理をより精度高く表現したもの。 その正しさが実験的に裏付けられた。 素晴らしい。 ヘンな言い方だが,小澤さんが間違うはずがない,というのは(知り合いの間では)常識。 それがまた裏付けられたという点でもうれしい。
ポール・グライス(Herbert Paul Grice 1913-1988)はイギリス出身の哲学者・言語学者。
オックスフォード大学を経て1967年からカリフォルニア大学バークレー校教授を務めた(Wikipedia)。 ![]() バークレーで学んだ先輩から名前を聞かされてきて,言語哲学の大家として,それこそ名前は知っていたものの,主専攻が言語哲学ではなかったので,それほど熱心ではなかった。 最近ひょんなところから,自分の関心に近いことになって,あらためてネットをチェックしてみた。 次はあるHPからのコピー。 Herbert Paul Grice (March 13, 1913, Birmingham, England - August 28, 1988, Berkeley, California), usually publishing under the name H. P. Grice, H. Paul Grice, or Paul Grice, was a British-educated philosopher of language, who spent the final two decades of his career in the United States. Grice's work is one of the foundations of the modern study of pragmatics. Grice is remembered mainly for his contributions to the study of speaker meaning, linguistic meaning, and (several of) the interrelations between these two phenomena. He provided, and developed, an analysis of the notion of linguistic meaning in terms of speaker meaning (according to his initial suggestion, 'A meant something by X' is roughly equivalent to 'A uttered X with the intention of inducing a belief by means of the recognition of this intention'). In order to explain how nonliteral utterances can be understood, he further postulated the existence of a general cooperative principle in conversation, as well as of certain special maxims of conversation derived from the cooperative principle. In order to describe certain inferences for which the word "implication" would appear to be inappropriate, he introduced the notion of (several kinds of) implicatures. (http://linguaned.webs.com/apps/photos/photo?photoid=74522821) 人の発話には,字面の意味(what is said)と言外の含み(implicatures)がある,というのがグライスの主張の一つ。 奥方が「今日はごみの日ね」と言えば,「アナタ,ゴミ出しお願い」というのがその言外の含みの一つだ。 グライスは会話がうまくいくための協調原理(cooperative principle)とそれに従属する四つの格率を考えているとのこと。 格率としては,たとえば, 十分な証拠を欠いていることを言うな。 曖昧な表現を避けよ。 など。 この話をあらためて読んで,私は自分が少数の友人から「入間ことば」(逆さことば)の名人とされてきたことを思い出した。 言外の含みをうまく(怪しからぬ仕方で?)使うと,皮肉や誇張その他のことを表現することができる。その名人級の実践者と私は目されてきたのだ。 協調原理を前提としながら,人間世界を豊かにする(?)多様な表現を展開することができる。 遅まきながら,グライスの仕事の意味に気づいた次第である。 よく読んでいないので何であるが,Wikipediaの説明を見る限り,やや四角四面。 落語,ジョーク等への展開が面白そうだ。 (顔写真をみる限り,グライスは四角四面ではなさそうである。迫力がある)
「<訃報>大石尚子さん75歳=民主党参院議員」
という記事を見た。 ![]() 大石さんは,連合艦隊参謀秋山真之の孫(次女の娘)。 3年越しのNHKドラマ「坂の上の雲」が,先月最終回「日本海海戦」で終わったばかり。 あらためて秋山真之をチェックしたところ, 水野広徳による追悼文 「噫(ああ)、秋山海軍中将」 (http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=415) に気づいた。 一読。とくに面白かったのが,米国留学時代の真之の勉強ぶり。 ・・僕が中将と同艦したる頃、中将は多忙なる隊務の余暇を以て、毎夜一時頃までも仏蘭西(フランス)語の稽古をして居られた。又米国留学中の如きも、暇あれば必ず書店に行き、一時間も二時間も、店頭に於て諸種の書物をひもとき、必要の個所はノートに書き取り、而かも未だ曾て一冊の書物も買ったことがない。流石自由主義なる米国書店の番頭もその図うくしさに呆きれ、横着なる日本人として頗る鼻摘者とり、小僧の如きも殆んど相手にしなくなった。併し中将はそんな事には少しも頓着せず、不格好なる洋服姿を相変らず其の書店に曝らし、手当り次第に書物を引き出し店頭のロハ読を続行せられた。斯して三月経ち四月経つ中、××書店の日本人と云へば付近の一評判となった程である。此に至って書店の主人も遂に中将の根気と熱心とに降参し、後には店の書物を全部開放し尚は新刊書物の如きは態々取り寄せて見せて呉れたと云ふことである。 これは知らなかった。お国のため,なりふりかまわず米国本屋で立ち読み猛勉強。ノートまでとり,最後は書店主まで味方につけてしまうとは・・痛快,立派である。
前稿で,三國連太郎さんだけで十分などと失礼なことを書いたが,他の方の体験記ももちろん興味深い。
![]() 「ゲゲゲの鬼太郎」の作者水木しげるさんについては,他でほぼ同じ内容のことを読んでいたので私にとって新しさはあまりなかったが,2点が印象的だった。 ひとつは,水木さんがラバウルの司令官今村 仁大将と二度会っているということ。 水木さん曰く, 「たくさんいる中将はきらいだが,大将は一人だけでしょう。大将は大好きです」 水木さん一流の言い方だが,今村さんが好ましいお人だったことがよくわかる。 鬼太郎が大好きと言うなら立派な人にきまっている。 いまひとつは,インタビューを締めくくる水木さんの次の発言である。 「みんな自分で生きていると思っていますが,本当は生かされているんです。自分の意思ではないもの力によって,生かされている。少なく見積もっても,人生の一,二割はそうです。実感として,そう思います」 法然・親鸞をおもわす深い指摘だ。ご自身の体験に根差す点に値打ちがある。 (写真は出征前。父君と)
「昭和二十年夏、僕は兵士だった」
梯 久美子著 (角川書店 2009年刊)を読んだ。 ![]() 戦争経験をもつ5人の著名人のインタビュー記事。 ところどころにはさまれる著者の感想はやや冗長と感じた。 私にとって最も印象的だったのは,俳優の三國連太郎氏の話。 他の方には失礼だが,この話だけで十分という感じ。 三國さんはご存じ「釣りバカ日誌」のスーさん。 この映画をはじめて見たときには,胡散臭い人がスーさんだな,などと思ったが,親しみやすい見事なスーさんとなった。 インタビューの中で胡散臭さの正体が率直に語られている。 徴兵逃れの逃亡,失敗,連れ戻され中国の最前線へ,終戦後偽装結婚を使い帰国,・・・ どなたも同じ意見と思うが,父君(養父)の話がよい。 差別される立場の方だったとのこと。そこから逃れるためにシベリア出兵に従軍。 この人に育てられたなら,なるほど一本筋がはいるわい,と感心した。 さすがスーさんである,いろいろ苦労されたが,何が正義かを知っておられる。 人間胡散臭さは必要だな,とヘンに安心もした。 http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2008/10/post-ba26.html http://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/cat10713666/ など読むと,日本にもこういう俳優がいたのか,と驚く。
を再読した。
中世日本に関する史論集。 再読と言っても部分読み。 私が好きなのは「清衡考」と「親鸞の一通の手紙」 。 これ一つと言われれば「清衡考」。 間欠的だが,昔から好んで読んできた。 緻密な古典的文体が好ましい。 しかし,隙がないわけではない。四角四面ではない。 ファンタジックな部分もかなりある。 清衡とはもちろん奥州藤原氏の祖藤原清衡。 数奇な運命に導かれて,清衡は古代東北を舞台とする2つの大戦ー前九年の乱,後三年の乱の最後の勝利者となった。 家康も幕府を開くにあたって手痛い喪失を経験しなければならなかったが(信長の命令で妻子を殺させた),清衡にもそれ以上の喪失があった。 戦の後,朝廷の監視の目がひかる中,東北の地に平泉・中尊寺を中心とする仏国土を建設したことはすばらしい。 「中尊寺供養願文」において自らを「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現したうえで,檀那として自分のほかに3人の女性(安倍氏,清原氏,平氏)の名前を記しているところなどは,彼の人となりがうかがえて感動的である。 金色堂をどう考えるかが清衡論のポイントと指摘されている。同意。 振舞いをふくめ他はほとんどすべて日本の伝統的美意識の枠組みに収まるようにみえるが,金色堂だけやや異質に思える。 彼を初代とする藤原三代はすべてミイラ処理されている。 西域の技術が平泉にあったことはまちがいない。 唐木氏の自由な想像の延長上に,金色堂=ピラミッドという発想が思い浮かんだ。 金色堂は「北方の独立王国」の象徴であろう。 彼の伯父安倍宗任は,朝廷の庭で「わが国の梅の花とは見たれども大宮人はなんというらん」と詠んだとされる。 その心根の別バージョンが金色堂であるような気がする。 先年東北道を北上する途中で見た平泉付近の景色はやわらかく,見事なものだった。 今年世界遺産に登録された。めでたい。 金色堂を再訪してみたいものである。 ![]() 台日に絆 八田與一の功績 台北駐日経済文化代表・処馮寄台代表 (http://sankei.jp.msn.com/world/news/111203/chn11120308360002-n1.htm) 李登輝台湾元総統講話「日本人の精神」(草稿) (http://www.a-eda.net/asia/leelec2002.pdf) 植民地時代,台湾南部地方の治水に心血を注いだ日本人技師がいた。 八田與一氏である。 10年にも及ぶ大工事の末完成した烏山頭ダム(当時アジア最大)により,その恩恵を受ける地域は台湾有数の穀倉地帯となった。 彼と彼を助けた人々の物語は,たとえば, 「八田與一」という日本人がいた!(その1) (http://www5.city.nishiwaki.hyogo.jp/school/el/kusugaoka/tayori/takao/035.htm) 台湾で最も愛される日本人-八田與一 (http://www.yorozubp.com/9907/990718.htm) 嘉南大しゅう60周年祝辞 陳彩宮氏 (1980/12) (http://www.a-eda.net/asia/hatta.pdf) などで読める。映像は, 【台灣百年人物誌】八田與一 (http://www.youtube.com/watch?v=Am2-oNhxMy4) 台湾・「嗚呼!フォルモサ・ダムの父」 http://www.youtube.com/watch?v=3-NFNpITaHY などがある。 http://taiwankenkyuforumkansai.blogspot.com/2011/05/blog-post_15.html http://blog.udn.com/sdna/5183427 には台湾の方々による「千鷺之歌」という美しい創作バレエがある。 音楽ともどもすばらしい。 千鷺(千の白サギ)は,大工事に従事した人々をさしているのだろうか。 台湾の方々は今も八田與一氏を高く評価してくれている。 たしかに,日本人の誇り。 「烏山頭水庫」(ダム)プラス「三年輪作法による給水システム」の設計は見事。 八田氏は,戦時中陸軍に徴用され船でフィリピンに向かう途中,潜水艦の攻撃により世を終えた。 その後を追い自死した夫人には胸をうたれた。 李登輝さんの講演も立派。 あらためて,彼について調べてみた。Wikipediaには次のようにある。 蒋経国の死後、その後継者として中国の歴史上初めて民主的な手続きを経て一国のトップとなった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の民主化・本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという「中華民国在台湾」を主張、その後さらにこの国のことを「台湾中華民国」と呼ぶようになった。北京政府との内戦状態の一方的終結宣言は、内戦を理由に存在し続けてきた治安法「動員戡乱時条款」を廃止させ、政治の「民主化」を推進させることとなる。また、総統在任中経済発展についても大きな成果を上げている。 総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党「台湾団結連盟」を自ら中心となって結成し、「台湾独立」運動の事実上の指導者と考えられている。 ・・李登輝は中国の政治家を全面否定しているわけではなく、胡錦濤やそのポスト世代の習近平・李克強を「地方で鍛えられた優秀な政治家」と高く評価し、日本の政治家を「東京や法律でしかものを考えられない人ばかり」と批判している。 ふむ,立派。フェアー。中国の政治家の評価についても同意できる。日本の政治家についても当然の評価。 八田與一氏については,彼にふさわしいドラマ,映画をみたい。 日台合作としたいものである。 追記 八田外代樹像の建立 永い時を経て、なお美しい愛の物語 - 八田與一記事 ... (http://www.wretch.cc/blog/tcf720/21034577) 「先人の功績に感謝する気持ちは、社会全体のソフト建設の基盤である」 同意。 ![]() (上)(下)山本兼一 (著),日本放送出版協会(2010年)を読んだ。 幕臣にして明治天皇の侍従をつとめた山岡鉄舟の物語(歴史小説)。 海音寺潮五郎だったろうか,昔,明治天皇を相撲で投げ飛ばしたという山岡鉄舟の物語を読み,また畏友から彼の話をときどき聞いてはいたが,雑務にまぎれて手が届かなかった。 たまたま図書館で本書をみつけ,読んでみた。 上巻「幕末篇」はさほど感興は湧かなかった(ただし「鬼鉄」鉄舟の愚直ぶりは印象的),下巻「明治篇」に入ってが然おもしろくなった。 幕府側から幕末の交渉が読めて,その点でもおもしろかった。 勝海舟,清水次郎長とのからみもおもしろい。 もちろん,西郷隆盛との会見も興味深い(この話を私は見落としていた)。 西郷が鉄舟を評した名高い場面: 江戸に入って来た官軍の西郷を勝は芝の愛宕山上に招待し江戸城下の有様を眺望させた。 このとき西郷は「さすが徳川公、良いお宝をお持ちだ」と語る。 勝が良い宝とは?と聞くと「山岡さんのことだ」と云う。 西郷は「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人ですが、しかしあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合う訳には参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」と言い褒めた。 鉄舟の人物に感服。 最上級だ。 愚直ぶりでは海舟より数段上。 世に鉄舟ファンは多いようで,いくつかのホームページで彼の魅力的な人物像に触れることができる。 小説そのものはかなり延々と書いてあるので私は得意の飛ばし読みだったが,彼の逸話を知りたいという向きにはそれらホームページを読むのがよいかもしれない。 たとえば, 楽道庵ホームページ:禅と東洋の心 » 山岡鉄舟(一) 豪快な写真を眺めていたら,鉄舟と龍馬が組んで地球侵略軍を迎え撃つ,というストーリーが思い浮かんだ。強力なコンビ。 これと比べると,原発被災とTPP,「社会保障と税の一体改革」を迎え撃とうとしている(らしい)現内閣のラインナップは大分見劣りする。 月とスッポンである。 (本稿,他所からの移植,加筆)
ときおり''armchair philosophy'' という語をみる。
What does ''armchair philosophy'' mean? という質問に答えているサイトがあったので(いくつか見た答えの中で一番よさそうだと思ったので)紹介。 It's actually unrelated to terms like "armchair historian" or "armchair quarterback." It refers to any a priori philosophical investigation, the idea being that you can't need to do experiments, or conduct surveys, to know, for instance, what is moral, or if we live in the matrix. These are questions whose answer, if there is one, can be discovered just by thinking about it. They are, so to speak, the sort of question you can investigate rom your armchair. Most (in fact, almost all) academic Philosophy is "armchair philosophy," and the term is usually used in contrast with a new philosophical movement called "X-Phi," or experimental Philosophy, popular at a few philosophy departments in the U.S., like Rutgers and UPitt. In fact, the official X-Phi emblem is a picture of an armchair in flames. (http://www.answerbag.com/q_view/706787) ふむ,直訳すれば「肘掛け椅子哲学」,少し意訳すれば「懐手式哲学」,「観念的哲学」ということになろうか。 上にあるように,ほとんどのacademic Philosophyは'armchair philosophy'だ。 そこでのphilosophyは思考実験であり,実験,観察はしない。 "X-Phi"(experimental Philosophy実験哲学)との対比で使われることが多い,"X-Phi"はラトガーやピッツバーグで活発,とのこと。 前にも書いたが,"X-Phi"の可能性に私は悲観的だ。 すると私にとってphilosophyはarmchair philosophyであることになる。 ならば,せめて快適なarmchairが欲しいものである。
久しぶりに良寛和尚。
「良寛入門」(http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/ryoukan.htm) を拝読していたら,次の一節が目にとまった。 良寛は「南無帰命常不軽」と誌し、 僧は万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける と歌っている。 常不軽は法華経の常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)品で説かれる菩薩で、人に会えば必ず礼拝をして、「我敢へて汝等を軽しめず。汝等皆当に作仏すべきが故に」と、衆生の心に宿る仏心を目ざめさせようとしたと言う。人々が杖木で打ち、瓦石を投げてののしると避けて逃げるが、なお遠くから礼拝することをやめなかったこの尊い菩薩こそ釈迦仏の前身であったと経は説く。 賢治も法華経・常不軽菩薩品を愛読していたとのこと。 さすが良寛和尚,見事な歌である。 僧についての彼の哲学が余すことなく述べられている。
世界驚愕の遺伝子研究!なんと秘密裏に人間と動物の混合種が150以上も作られていた
(http://rocketnews24.com/2011/07/26/115489/) 2011年7月26日 先週、3年間秘密裏に行われていたある研究内容が明らかとなり、世界に衝撃を与えた。その研究内容とは、人間と動物の遺伝物質を使って混合胚を作るというもので、にわかに信じがたい話となっている。 この研究を行っていたのは、イギリスのキングス・カレッジ・ロンドン、ニューカッスル大学、ウォーリック大学の3カ所で、彼らは2008年に制定されたヒトの受精及び胚研究に関する法律の施行後、155もの人間と動物の混合胚を作っていた。 ヒトの受精及び胚研究に関する法律というのは、ヒトの精子と動物の卵子を受精させたり、動物の細胞にヒトの細胞核を移植したりするのを合法化させたもので、研究者たちはこの法律のもと、人間の初期発育を解明するため、そして不治の病とされる病気を治療するため今回の研究を行っていた。・・・ (http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2017818/Embryos-involving-genes-animals-mixed-humans-produced-secretively-past-years.html) ふむ。ショッキングである。 原文は,イギリスには規制があるが,他国では・・という終わり方になっている。
近くの図書館で津本 陽「戦国業師列伝」(世界文化社)を見つけ借りてきた。
業師列伝の最初が「新陰流」上泉伊勢守信綱で,2番目が前田慶次。 「花の慶次」,「傾奇者」として名前は知っていたものの,前田慶次に特段の関心はなかった。 しかし,読み始めて,彼が滝川家出身であることを知った。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E6%B0%8F によれば,彼の本名は「前田利益(とします)」。 前田利家の義理の甥になるが,血筋で言えば滝川家。 信長の武将として知られた滝川一益の直系の孫が,先日とりあげた快男子滝川三九郎一積(かずあつ)。 前田慶次と三九郎が同じ滝川家出身というのは,私にとってうれしい発見。 それなら話はわかる。 いずれ劣らぬ快男子。 私としては戦国ロック風慶次はこれまで守備範囲外であったが,考えをあらためることに決定。 ネットをチェックしたところ,面白い遭遇があったので紹介させていただく。(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2228.html) 本能寺の変により、関東攻めの最中だった滝川一益軍は撤退することになった。 真田昌幸は一時滝川に人質を提出していたが、神流川での滝川軍敗北を知ると北条氏とも通じ、いよいよ滝川軍撤退と知って佐久・小県をおさえるため嫡男・信幸を大将に軍を派遣した。 信幸軍は上野から信濃へ入る軍勢を発見した。 おそらく織田勢であろう。 緊張が走る。 信幸は軍を小高い山に引き上げ、様子をうかがった。 やがて、信幸は軍勢の中に見知った顔を見つけた。 「おお、この軍勢を率いてる者は間違いない。 前田慶次だろう。彼とは懇意なので心配はいらない」 すると前田慶次も信幸に気づいた。 「珍しいな、真田殿がこのようなところへ参るとは。我々の道中警護でもしてくれるのか。たとえ一揆が道をふさいでも蹴散らしてやる。せっかくの親切だが、軍は引き取ってくれぬか。先日信長公が亡くなったようでな、上方は真っ暗だわい」 敵か味方か定かでない真田相手に信長の死を明かす豪放な慶次の言葉に、信幸も感心して軍勢を引いた。 (「滝川一益事書」「加沢紀」) 私は信幸ファンでもあるので,こういう話は好ましい。
The Zen of Steve Jobs
(http://religion.blogs.cnn.com/2011/10/06/the-zen-of-steve-jobs/) ![]() 非常に興味深い話だ。 Steve Jobsが若い頃インドに出かけ,帰ってきたときには坊主頭だった,たということは知っていたものの,日本人のZen masterとここまで親しかった,ということは知らなかった。 言われてみれば,"Stay hungry. Stay foolish”も禅的だ。 英語の字面よりずっと禅的だろう。 スマートなMacやiPodのベースに禅があった,というのは楽しい。 Sonyが米国人CEOを迎え,AppleがZenをベースにする,など皮肉が利いていて,これもよい。 乙川弘文師は日本語を話すときも流暢とは縁遠い話し方で,2002年に孫娘を助けるために溺死されたとのこと。良寛和尚のような方と拝察する。
秋風を感じたからだろうか,数日前ふと「修身」とは何だろう?と思った。
辞書を見たら,次の言葉から来ているとあった。 修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか) 《「礼記」大学から》 天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。 わが国の指導者に聞かせたい言葉だ。 戦前「修身」の時間があった。戦後GHQにより軍国主義のシンボルとして廃止され,「道徳」の時間となった,ということは知っている。 しかし, 「エピローグ 修身斉家治国平天下こそ民主主義教育の柱に相応しい www.fujitsubame.jp/democracyeep.html」 にあるように,「修身」は捨てがたい。 道徳というと,数学や物理のように,きまった法則がありそれを学ぶ,と受けとられるだろう。 しかし,そのような法則としては「他人にしてもらいことを行い,してもらいたくないことはしない」で終わり。 わざわざ数年かける必要はない。 無理してやると形骸化・・・は目にみえている。 「身を修める」ことは,それを広義にーself managementといった意味にとれば,「道徳」より広く,より根源的で,多くの人がその必要性をうけいれる,と思う。 生きるにあたって「身を修める」ことがいかに困難か,ということは多くの人が了解していよう。 生きるのはたやすくない。 若い人もそうだろうが,年配になると実感が高まりそうだ。 「修身」を導入して,それを戦前のように皇国史観により実装しよう,というつもりの人はいるかもしれない。 しかし,いても少数だろう。 「3.11」後の日本で,修身を皇国史観や「神の国」論により実装するなどということはありえない。 修身はこの概念にぴったりの言葉だと思うが,その誤用の記憶をきらう人も多いだろう。 別の言葉がみつかればよいのだが・・ さて,「修身」を強制することはよくないし,できない。 「自己修身」が基本。 しかし,年嵩の者によるヘルプは悪くないし,役に立つケースも多いだろう。 ではどのようにヘルプするか。 とくに教室で,ということになるとどうか。 私がよいと思うのは,すぐれた先人の行き様に触れてもらうこと。 なんだ,それでは,明治天皇,豊臣秀吉,二宮尊徳,・・・という戦前の話と同じではないか!という疑いがあろう。 そこは「選択」の問題,各ヘルパーの(今の時代を生きるわれわれの)腕の見せ所である。 追記 ネットをざっと見たところ,”School Management - Moral Training”と題する次の文章があった。 The Need of Moral Education.-The highest aim of education is the formation of character. Sound ethical training, no doubt, calls for the due cultivation of the intellectual and physical faculties, as well as the development of the emotional nature. Mere physical and intellectual power may, however, do harm if achieved regardless of moral training. Morality is essential to the welfare of the State. History affords numerous illustrations of the disastrous results that follow when the intellect is sharpened, but the moral nature neglected. The rapid growth of knowledge among the community, and the increased power which intellectual attainments give, render the question of national ethics more and more pressing on public attention. The extension of commerce, the growth of industries, the spread of democratic institutions, and the dependence of individuals and communities upon one another, make it imperative that principles of righteousness should form an essential part of every child's education. ・・・ ふむ,立派な文章,と思って日付を見たら,(Originally Published 1897)とあった。
野村克也の人生哲学「不器用な方が最後は勝つ」(2011.08.22)
(http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/text/201108210003-spnavi.html) 一読,感心した。 多くの人を説得するのではないか。
久しぶりに歎異抄
第二条 一 おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、 たづねきたらしめたまふ御こころざい、ひとへに往生極楽のみちを 問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存 知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめして おはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししから ば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もお よびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願 まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことなら ば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はから ひなりと云々。 親鸞が京都に去った後の混乱(善鸞事件)で不安に陥った常陸門徒たちが,信心の確認をもとめて京都の親鸞を訪ねたおりの対話を記録した名高い箇所。 その最後の部分(下線部)。 もし阿弥陀仏が正しければ,釈迦も正しい。もし釈迦が正しければ善導も正しい,・・・,もし法然が正しければ親鸞も正しい。 疑い深い人なら,そもそも出発点の阿弥陀仏の本願は正しい?その保証は?とさらに尋ねるだろう。 しかし,親鸞の話のポイントはそこにはない。 私親鸞は,阿弥陀仏(法蔵菩薩)をはじめ多くの先人を敬愛,信頼している,というのが要点。 信仰のベースをなすのは,教え自身の説得力もあるが,最終的には師,時代を超えた師匠たちへの敬愛・信頼なのだ。 (時代をともにする,しないにかかわらず)「よきひと」はこの世の宝,と思う。
「米国製エリートは本当にすごいのか?」(佐々木紀彦著)
という新刊の書評を読んだ。 (http://book.asahi.com/reviews/column/2011081500002.html) そこから本のポイントを拾い上げると アメリカの一流大学でも学部はたいしたことないけど、大学院でおこなわれるエリート教育はすごい。 米国のエリート教育では経済学と歴史学を重視している。経済学は今の世の中を深く理解するのに必要だし、過去に学ばなければ前進はない。 学部生には大量の本を読ませ、レポートを書かせ、発表や討議をさせる。その量、4年間で推計480冊。 書評氏は,結果として生産された米国製エリートが,ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン攻撃、イラク侵略などろくでもない戦争ばかりやったということを理由に,そんなエリートを生産する必要はない,という結論にもっていっている。太平洋戦争中,技術者がレーダーの重要性を具申したにもかかわらず,「鍛えに鍛えた目」にかなうものない,と言って却下した軍上層部と似ている。 あちらが英語で書かれた本を自由に読めるのに対し,こちらはそうでない,という無視できないハンデイはあるものの,学生には大量の本を読ませるのは賛成。単純計算でひと月に10冊。できない数字ではない。 指導的な立場に立つ人々には質・量豊富な教育をあたえるべきだ。政界の大貧困や原子力村のあのていたらくを見て,いっそうそう思う。 ![]() 最近になって「否定神学」(apophatike theologia)に関心をもつようになった。 これはキリスト級神学における方法論の一つで,超越者である神については「・・ではない」という否定的な述語によってのみ記述できる,とする考え方。 この考え方においては,「神は存在する」,「神は全知全能である」,「神は善である」等々は言えない(言えるというのが「肯定神学」)。 (日本語Wikipediaに否定神学の簡単な紹介がある。必要最小限の紹介であるが参考になる。 http://donamajicshow.tumblr.com/post/123275851/mysticism-negative-and-positive-theology もコンパクトな説明)。 なぜ否定神学に関心をもつようになったか? 真,善,美,自然法則等のほとんどの(すべての?)哲学的概念が(経験を超えた)超越者であることに(または,ありうることに),遅まきながら気づいたからである。 神は超越者の一つにすぎない。 この見方からすると,否定神学的発想ははば広い適用範囲をもちうる。 Wikipediaから例を拝借すると; ドイツ神秘主義の影響の下にあるクザーヌスにおいては、神は万物の原理であるために、かえって神に作られた万物は原理としての神を完全に理解できないとされ、神の人間に対する本質は「知解されえない」ことにおかれる。この人間の本質的な無知を自覚することが、人間にとって最上の知、「知ある無知」である。 こうした中世の神秘主義的否定神学は、ルター派とくにシュヴァーベン敬虔主義に影響し、そこからカントの非述語的な存在概念や、ドイツ観念論における神および絶対者概念の成立(バタイユが指摘するように、特にヘーゲルのそれ)にも影響した。 またハイデッガーの存在論などにも類似の思考がみられる。ハイデッガーは存在を存在者でないと定める。その定め方は極めて否定神学システム=「この世のあらゆる概念“でない”というシステム」に近いといえよう。 また、老荘思想における“無”は、日常世界のあらゆるもの“でない”から“無”と名付けられた点で、これも否定神学的な方法論であると言えよう。 神等を「(科学的言語によっては)語ることのできないもの」と特徴づけたウィトゲンシュタインもこの系譜に属すると言ってよさそうだ。 超越者に関する思考実験であるという点で神学と哲学は近いなあ,論理的には哲学の一部が神学,というのがこのところの私の感想。 フランス現代思想において否定神学が議論の対象となってきたもよう。 ざっとチェックした範囲では,批判の対象として否定神学が扱われている。 私の関心と重ならないかもしれないが,少しかじってみようかな。
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