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ハイゼンベルクの不確定性原理を破った!小澤の不等式を実験実証 ...
小澤さんの不等式はハイゼンベルクの不確定性原理をより精度高く表現したもの。 その正しさが実験的に裏付けられた。 素晴らしい。 ヘンな言い方だが,小澤さんが間違うはずがない,というのは(知り合いの間では)常識。 それがまた裏付けられたという点でもうれしい。
ポール・グライス(Herbert Paul Grice 1913-1988)はイギリス出身の哲学者・言語学者。
オックスフォード大学を経て1967年からカリフォルニア大学バークレー校教授を務めた(Wikipedia)。 ![]() バークレーで学んだ先輩から名前を聞かされてきて,言語哲学の大家として,それこそ名前は知っていたものの,主専攻が言語哲学ではなかったので,それほど熱心ではなかった。 最近ひょんなところから,自分の関心に近いことになって,あらためてネットをチェックしてみた。 次はあるHPからのコピー。 Herbert Paul Grice (March 13, 1913, Birmingham, England - August 28, 1988, Berkeley, California), usually publishing under the name H. P. Grice, H. Paul Grice, or Paul Grice, was a British-educated philosopher of language, who spent the final two decades of his career in the United States. Grice's work is one of the foundations of the modern study of pragmatics. Grice is remembered mainly for his contributions to the study of speaker meaning, linguistic meaning, and (several of) the interrelations between these two phenomena. He provided, and developed, an analysis of the notion of linguistic meaning in terms of speaker meaning (according to his initial suggestion, 'A meant something by X' is roughly equivalent to 'A uttered X with the intention of inducing a belief by means of the recognition of this intention'). In order to explain how nonliteral utterances can be understood, he further postulated the existence of a general cooperative principle in conversation, as well as of certain special maxims of conversation derived from the cooperative principle. In order to describe certain inferences for which the word "implication" would appear to be inappropriate, he introduced the notion of (several kinds of) implicatures. (http://linguaned.webs.com/apps/photos/photo?photoid=74522821) 人の発話には,字面の意味(what is said)と言外の含み(implicatures)がある,というのがグライスの主張の一つ。 奥方が「今日はごみの日ね」と言えば,「アナタ,ゴミ出しお願い」というのがその言外の含みの一つだ。 グライスは会話がうまくいくための協調原理(cooperative principle)とそれに従属する四つの格率を考えているとのこと。 格率としては,たとえば, 十分な証拠を欠いていることを言うな。 曖昧な表現を避けよ。 など。 この話をあらためて読んで,私は自分が少数の友人から「入間ことば」(逆さことば)の名人とされてきたことを思い出した。 言外の含みをうまく(怪しからぬ仕方で?)使うと,皮肉や誇張その他のことを表現することができる。その名人級の実践者と私は目されてきたのだ。 協調原理を前提としながら,人間世界を豊かにする(?)多様な表現を展開することができる。 遅まきながら,グライスの仕事の意味に気づいた次第である。 よく読んでいないので何であるが,Wikipediaの説明を見る限り,やや四角四面。 落語,ジョーク等への展開が面白そうだ。 (顔写真をみる限り,グライスは四角四面ではなさそうである。迫力がある)
「<訃報>大石尚子さん75歳=民主党参院議員」
という記事を見た。 ![]() 大石さんは,連合艦隊参謀秋山真之の孫(次女の娘)。 3年越しのNHKドラマ「坂の上の雲」が,先月最終回「日本海海戦」で終わったばかり。 あらためて秋山真之をチェックしたところ, 水野広徳による追悼文 「噫(ああ)、秋山海軍中将」 (http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=415) に気づいた。 一読。とくに面白かったのが,米国留学時代の真之の勉強ぶり。 ・・僕が中将と同艦したる頃、中将は多忙なる隊務の余暇を以て、毎夜一時頃までも仏蘭西(フランス)語の稽古をして居られた。又米国留学中の如きも、暇あれば必ず書店に行き、一時間も二時間も、店頭に於て諸種の書物をひもとき、必要の個所はノートに書き取り、而かも未だ曾て一冊の書物も買ったことがない。流石自由主義なる米国書店の番頭もその図うくしさに呆きれ、横着なる日本人として頗る鼻摘者とり、小僧の如きも殆んど相手にしなくなった。併し中将はそんな事には少しも頓着せず、不格好なる洋服姿を相変らず其の書店に曝らし、手当り次第に書物を引き出し店頭のロハ読を続行せられた。斯して三月経ち四月経つ中、××書店の日本人と云へば付近の一評判となった程である。此に至って書店の主人も遂に中将の根気と熱心とに降参し、後には店の書物を全部開放し尚は新刊書物の如きは態々取り寄せて見せて呉れたと云ふことである。 これは知らなかった。お国のため,なりふりかまわず米国本屋で立ち読み猛勉強。ノートまでとり,最後は書店主まで味方につけてしまうとは・・痛快,立派である。
前稿で,三國連太郎さんだけで十分などと失礼なことを書いたが,他の方の体験記ももちろん興味深い。
![]() 「ゲゲゲの鬼太郎」の作者水木しげるさんについては,他でほぼ同じ内容のことを読んでいたので私にとって新しさはあまりなかったが,2点が印象的だった。 ひとつは,水木さんがラバウルの司令官今村 仁大将と二度会っているということ。 水木さん曰く, 「たくさんいる中将はきらいだが,大将は一人だけでしょう。大将は大好きです」 水木さん一流の言い方だが,今村さんが好ましいお人だったことがよくわかる。 鬼太郎が大好きと言うなら立派な人にきまっている。 いまひとつは,インタビューを締めくくる水木さんの次の発言である。 「みんな自分で生きていると思っていますが,本当は生かされているんです。自分の意思ではないもの力によって,生かされている。少なく見積もっても,人生の一,二割はそうです。実感として,そう思います」 法然・親鸞をおもわす深い指摘だ。ご自身の体験に根差す点に値打ちがある。 (写真は出征前。父君と)
「昭和二十年夏、僕は兵士だった」
梯 久美子著 (角川書店 2009年刊)を読んだ。 ![]() 戦争経験をもつ5人の著名人のインタビュー記事。 ところどころにはさまれる著者の感想はやや冗長と感じた。 私にとって最も印象的だったのは,俳優の三國連太郎氏の話。 他の方には失礼だが,この話だけで十分という感じ。 三國さんはご存じ「釣りバカ日誌」のスーさん。 この映画をはじめて見たときには,胡散臭い人がスーさんだな,などと思ったが,親しみやすい見事なスーさんとなった。 インタビューの中で胡散臭さの正体が率直に語られている。 徴兵逃れの逃亡,失敗,連れ戻され中国の最前線へ,終戦後偽装結婚を使い帰国,・・・ どなたも同じ意見と思うが,父君(養父)の話がよい。 差別される立場の方だったとのこと。そこから逃れるためにシベリア出兵に従軍。 この人に育てられたなら,なるほど一本筋がはいるわい,と感心した。 さすがスーさんである,いろいろ苦労されたが,何が正義かを知っておられる。 人間胡散臭さは必要だな,とヘンに安心もした。 http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2008/10/post-ba26.html http://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/cat10713666/ など読むと,日本にもこういう俳優がいたのか,と驚く。
を再読した。
中世日本に関する史論集。 再読と言っても部分読み。 私が好きなのは「清衡考」と「親鸞の一通の手紙」 。 これ一つと言われれば「清衡考」。 間欠的だが,昔から好んで読んできた。 緻密な古典的文体が好ましい。 しかし,隙がないわけではない。四角四面ではない。 ファンタジックな部分もかなりある。 清衡とはもちろん奥州藤原氏の祖藤原清衡。 数奇な運命に導かれて,清衡は古代東北を舞台とする2つの大戦ー前九年の乱,後三年の乱の最後の勝利者となった。 家康も幕府を開くにあたって手痛い喪失を経験しなければならなかったが(信長の命令で妻子を殺させた),清衡にもそれ以上の喪失があった。 戦の後,朝廷の監視の目がひかる中,東北の地に平泉・中尊寺を中心とする仏国土を建設したことはすばらしい。 「中尊寺供養願文」において自らを「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現したうえで,檀那として自分のほかに3人の女性(安倍氏,清原氏,平氏)の名前を記しているところなどは,彼の人となりがうかがえて感動的である。 金色堂をどう考えるかが清衡論のポイントと指摘されている。同意。 振舞いをふくめ他はほとんどすべて日本の伝統的美意識の枠組みに収まるようにみえるが,金色堂だけやや異質に思える。 彼を初代とする藤原三代はすべてミイラ処理されている。 西域の技術が平泉にあったことはまちがいない。 唐木氏の自由な想像の延長上に,金色堂=ピラミッドという発想が思い浮かんだ。 金色堂は「北方の独立王国」の象徴であろう。 彼の伯父安倍宗任は,朝廷の庭で「わが国の梅の花とは見たれども大宮人はなんというらん」と詠んだとされる。 その心根の別バージョンが金色堂であるような気がする。 先年東北道を北上する途中で見た平泉付近の景色はやわらかく,見事なものだった。 今年世界遺産に登録された。めでたい。 金色堂を再訪してみたいものである。 ![]() 台日に絆 八田與一の功績 台北駐日経済文化代表・処馮寄台代表 (http://sankei.jp.msn.com/world/news/111203/chn11120308360002-n1.htm) 李登輝台湾元総統講話「日本人の精神」(草稿) (http://www.a-eda.net/asia/leelec2002.pdf) 植民地時代,台湾南部地方の治水に心血を注いだ日本人技師がいた。 八田與一氏である。 10年にも及ぶ大工事の末完成した烏山頭ダム(当時アジア最大)により,その恩恵を受ける地域は台湾有数の穀倉地帯となった。 彼と彼を助けた人々の物語は,たとえば, 「八田與一」という日本人がいた!(その1) (http://www5.city.nishiwaki.hyogo.jp/school/el/kusugaoka/tayori/takao/035.htm) 台湾で最も愛される日本人-八田與一 (http://www.yorozubp.com/9907/990718.htm) 嘉南大しゅう60周年祝辞 陳彩宮氏 (1980/12) (http://www.a-eda.net/asia/hatta.pdf) などで読める。映像は, 【台灣百年人物誌】八田與一 (http://www.youtube.com/watch?v=Am2-oNhxMy4) 台湾・「嗚呼!フォルモサ・ダムの父」 http://www.youtube.com/watch?v=3-NFNpITaHY などがある。 http://taiwankenkyuforumkansai.blogspot.com/2011/05/blog-post_15.html http://blog.udn.com/sdna/5183427 には台湾の方々による「千鷺之歌」という美しい創作バレエがある。 音楽ともどもすばらしい。 千鷺(千の白サギ)は,大工事に従事した人々をさしているのだろうか。 台湾の方々は今も八田與一氏を高く評価してくれている。 たしかに,日本人の誇り。 「烏山頭水庫」(ダム)プラス「三年輪作法による給水システム」の設計は見事。 八田氏は,戦時中陸軍に徴用され船でフィリピンに向かう途中,潜水艦の攻撃により世を終えた。 その後を追い自死した夫人には胸をうたれた。 李登輝さんの講演も立派。 あらためて,彼について調べてみた。Wikipediaには次のようにある。 蒋経国の死後、その後継者として中国の歴史上初めて民主的な手続きを経て一国のトップとなった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の民主化・本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという「中華民国在台湾」を主張、その後さらにこの国のことを「台湾中華民国」と呼ぶようになった。北京政府との内戦状態の一方的終結宣言は、内戦を理由に存在し続けてきた治安法「動員戡乱時条款」を廃止させ、政治の「民主化」を推進させることとなる。また、総統在任中経済発展についても大きな成果を上げている。 総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党「台湾団結連盟」を自ら中心となって結成し、「台湾独立」運動の事実上の指導者と考えられている。 ・・李登輝は中国の政治家を全面否定しているわけではなく、胡錦濤やそのポスト世代の習近平・李克強を「地方で鍛えられた優秀な政治家」と高く評価し、日本の政治家を「東京や法律でしかものを考えられない人ばかり」と批判している。 ふむ,立派。フェアー。中国の政治家の評価についても同意できる。日本の政治家についても当然の評価。 八田與一氏については,彼にふさわしいドラマ,映画をみたい。 日台合作としたいものである。 追記 八田外代樹像の建立 永い時を経て、なお美しい愛の物語 - 八田與一記事 ... (http://www.wretch.cc/blog/tcf720/21034577) 「先人の功績に感謝する気持ちは、社会全体のソフト建設の基盤である」 同意。 ![]() (上)(下)山本兼一 (著),日本放送出版協会(2010年)を読んだ。 幕臣にして明治天皇の侍従をつとめた山岡鉄舟の物語(歴史小説)。 海音寺潮五郎だったろうか,昔,明治天皇を相撲で投げ飛ばしたという山岡鉄舟の物語を読み,また畏友から彼の話をときどき聞いてはいたが,雑務にまぎれて手が届かなかった。 たまたま図書館で本書をみつけ,読んでみた。 上巻「幕末篇」はさほど感興は湧かなかった(ただし「鬼鉄」鉄舟の愚直ぶりは印象的),下巻「明治篇」に入ってが然おもしろくなった。 幕府側から幕末の交渉が読めて,その点でもおもしろかった。 勝海舟,清水次郎長とのからみもおもしろい。 もちろん,西郷隆盛との会見も興味深い(この話を私は見落としていた)。 西郷が鉄舟を評した名高い場面: 江戸に入って来た官軍の西郷を勝は芝の愛宕山上に招待し江戸城下の有様を眺望させた。 このとき西郷は「さすが徳川公、良いお宝をお持ちだ」と語る。 勝が良い宝とは?と聞くと「山岡さんのことだ」と云う。 西郷は「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬといったような始末に困る人ですが、しかしあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合う訳には参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」と言い褒めた。 鉄舟の人物に感服。 最上級だ。 愚直ぶりでは海舟より数段上。 世に鉄舟ファンは多いようで,いくつかのホームページで彼の魅力的な人物像に触れることができる。 小説そのものはかなり延々と書いてあるので私は得意の飛ばし読みだったが,彼の逸話を知りたいという向きにはそれらホームページを読むのがよいかもしれない。 たとえば, 楽道庵ホームページ:禅と東洋の心 » 山岡鉄舟(一) 豪快な写真を眺めていたら,鉄舟と龍馬が組んで地球侵略軍を迎え撃つ,というストーリーが思い浮かんだ。強力なコンビ。 これと比べると,原発被災とTPP,「社会保障と税の一体改革」を迎え撃とうとしている(らしい)現内閣のラインナップは大分見劣りする。 月とスッポンである。 (本稿,他所からの移植,加筆)
ときおり''armchair philosophy'' という語をみる。
What does ''armchair philosophy'' mean? という質問に答えているサイトがあったので(いくつか見た答えの中で一番よさそうだと思ったので)紹介。 It's actually unrelated to terms like "armchair historian" or "armchair quarterback." It refers to any a priori philosophical investigation, the idea being that you can't need to do experiments, or conduct surveys, to know, for instance, what is moral, or if we live in the matrix. These are questions whose answer, if there is one, can be discovered just by thinking about it. They are, so to speak, the sort of question you can investigate rom your armchair. Most (in fact, almost all) academic Philosophy is "armchair philosophy," and the term is usually used in contrast with a new philosophical movement called "X-Phi," or experimental Philosophy, popular at a few philosophy departments in the U.S., like Rutgers and UPitt. In fact, the official X-Phi emblem is a picture of an armchair in flames. (http://www.answerbag.com/q_view/706787) ふむ,直訳すれば「肘掛け椅子哲学」,少し意訳すれば「懐手式哲学」,「観念的哲学」ということになろうか。 上にあるように,ほとんどのacademic Philosophyは'armchair philosophy'だ。 そこでのphilosophyは思考実験であり,実験,観察はしない。 "X-Phi"(experimental Philosophy実験哲学)との対比で使われることが多い,"X-Phi"はラトガーやピッツバーグで活発,とのこと。 前にも書いたが,"X-Phi"の可能性に私は悲観的だ。 すると私にとってphilosophyはarmchair philosophyであることになる。 ならば,せめて快適なarmchairが欲しいものである。
久しぶりに良寛和尚。
「良寛入門」(http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/ryoukan.htm) を拝読していたら,次の一節が目にとまった。 良寛は「南無帰命常不軽」と誌し、 僧は万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける と歌っている。 常不軽は法華経の常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)品で説かれる菩薩で、人に会えば必ず礼拝をして、「我敢へて汝等を軽しめず。汝等皆当に作仏すべきが故に」と、衆生の心に宿る仏心を目ざめさせようとしたと言う。人々が杖木で打ち、瓦石を投げてののしると避けて逃げるが、なお遠くから礼拝することをやめなかったこの尊い菩薩こそ釈迦仏の前身であったと経は説く。 賢治も法華経・常不軽菩薩品を愛読していたとのこと。 さすが良寛和尚,見事な歌である。 僧についての彼の哲学が余すことなく述べられている。
世界驚愕の遺伝子研究!なんと秘密裏に人間と動物の混合種が150以上も作られていた
(http://rocketnews24.com/2011/07/26/115489/) 2011年7月26日 先週、3年間秘密裏に行われていたある研究内容が明らかとなり、世界に衝撃を与えた。その研究内容とは、人間と動物の遺伝物質を使って混合胚を作るというもので、にわかに信じがたい話となっている。 この研究を行っていたのは、イギリスのキングス・カレッジ・ロンドン、ニューカッスル大学、ウォーリック大学の3カ所で、彼らは2008年に制定されたヒトの受精及び胚研究に関する法律の施行後、155もの人間と動物の混合胚を作っていた。 ヒトの受精及び胚研究に関する法律というのは、ヒトの精子と動物の卵子を受精させたり、動物の細胞にヒトの細胞核を移植したりするのを合法化させたもので、研究者たちはこの法律のもと、人間の初期発育を解明するため、そして不治の病とされる病気を治療するため今回の研究を行っていた。・・・ (http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2017818/Embryos-involving-genes-animals-mixed-humans-produced-secretively-past-years.html) ふむ。ショッキングである。 原文は,イギリスには規制があるが,他国では・・という終わり方になっている。
近くの図書館で津本 陽「戦国業師列伝」(世界文化社)を見つけ借りてきた。
業師列伝の最初が「新陰流」上泉伊勢守信綱で,2番目が前田慶次。 「花の慶次」,「傾奇者」として名前は知っていたものの,前田慶次に特段の関心はなかった。 しかし,読み始めて,彼が滝川家出身であることを知った。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E6%B0%8F によれば,彼の本名は「前田利益(とします)」。 前田利家の義理の甥になるが,血筋で言えば滝川家。 信長の武将として知られた滝川一益の直系の孫が,先日とりあげた快男子滝川三九郎一積(かずあつ)。 前田慶次と三九郎が同じ滝川家出身というのは,私にとってうれしい発見。 それなら話はわかる。 いずれ劣らぬ快男子。 私としては戦国ロック風慶次はこれまで守備範囲外であったが,考えをあらためることに決定。 ネットをチェックしたところ,面白い遭遇があったので紹介させていただく。(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2228.html) 本能寺の変により、関東攻めの最中だった滝川一益軍は撤退することになった。 真田昌幸は一時滝川に人質を提出していたが、神流川での滝川軍敗北を知ると北条氏とも通じ、いよいよ滝川軍撤退と知って佐久・小県をおさえるため嫡男・信幸を大将に軍を派遣した。 信幸軍は上野から信濃へ入る軍勢を発見した。 おそらく織田勢であろう。 緊張が走る。 信幸は軍を小高い山に引き上げ、様子をうかがった。 やがて、信幸は軍勢の中に見知った顔を見つけた。 「おお、この軍勢を率いてる者は間違いない。 前田慶次だろう。彼とは懇意なので心配はいらない」 すると前田慶次も信幸に気づいた。 「珍しいな、真田殿がこのようなところへ参るとは。我々の道中警護でもしてくれるのか。たとえ一揆が道をふさいでも蹴散らしてやる。せっかくの親切だが、軍は引き取ってくれぬか。先日信長公が亡くなったようでな、上方は真っ暗だわい」 敵か味方か定かでない真田相手に信長の死を明かす豪放な慶次の言葉に、信幸も感心して軍勢を引いた。 (「滝川一益事書」「加沢紀」) 私は信幸ファンでもあるので,こういう話は好ましい。
The Zen of Steve Jobs
(http://religion.blogs.cnn.com/2011/10/06/the-zen-of-steve-jobs/) ![]() 非常に興味深い話だ。 Steve Jobsが若い頃インドに出かけ,帰ってきたときには坊主頭だった,たということは知っていたものの,日本人のZen masterとここまで親しかった,ということは知らなかった。 言われてみれば,"Stay hungry. Stay foolish”も禅的だ。 英語の字面よりずっと禅的だろう。 スマートなMacやiPodのベースに禅があった,というのは楽しい。 Sonyが米国人CEOを迎え,AppleがZenをベースにする,など皮肉が利いていて,これもよい。 乙川弘文師は日本語を話すときも流暢とは縁遠い話し方で,2002年に孫娘を助けるために溺死されたとのこと。良寛和尚のような方と拝察する。
秋風を感じたからだろうか,数日前ふと「修身」とは何だろう?と思った。
辞書を見たら,次の言葉から来ているとあった。 修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか) 《「礼記」大学から》 天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。 わが国の指導者に聞かせたい言葉だ。 戦前「修身」の時間があった。戦後GHQにより軍国主義のシンボルとして廃止され,「道徳」の時間となった,ということは知っている。 しかし, 「エピローグ 修身斉家治国平天下こそ民主主義教育の柱に相応しい www.fujitsubame.jp/democracyeep.html」 にあるように,「修身」は捨てがたい。 道徳というと,数学や物理のように,きまった法則がありそれを学ぶ,と受けとられるだろう。 しかし,そのような法則としては「他人にしてもらいことを行い,してもらいたくないことはしない」で終わり。 わざわざ数年かける必要はない。 無理してやると形骸化・・・は目にみえている。 「身を修める」ことは,それを広義にーself managementといった意味にとれば,「道徳」より広く,より根源的で,多くの人がその必要性をうけいれる,と思う。 生きるにあたって「身を修める」ことがいかに困難か,ということは多くの人が了解していよう。 生きるのはたやすくない。 若い人もそうだろうが,年配になると実感が高まりそうだ。 「修身」を導入して,それを戦前のように皇国史観により実装しよう,というつもりの人はいるかもしれない。 しかし,いても少数だろう。 「3.11」後の日本で,修身を皇国史観や「神の国」論により実装するなどということはありえない。 修身はこの概念にぴったりの言葉だと思うが,その誤用の記憶をきらう人も多いだろう。 別の言葉がみつかればよいのだが・・ さて,「修身」を強制することはよくないし,できない。 「自己修身」が基本。 しかし,年嵩の者によるヘルプは悪くないし,役に立つケースも多いだろう。 ではどのようにヘルプするか。 とくに教室で,ということになるとどうか。 私がよいと思うのは,すぐれた先人の行き様に触れてもらうこと。 なんだ,それでは,明治天皇,豊臣秀吉,二宮尊徳,・・・という戦前の話と同じではないか!という疑いがあろう。 そこは「選択」の問題,各ヘルパーの(今の時代を生きるわれわれの)腕の見せ所である。 追記 ネットをざっと見たところ,”School Management - Moral Training”と題する次の文章があった。 The Need of Moral Education.-The highest aim of education is the formation of character. Sound ethical training, no doubt, calls for the due cultivation of the intellectual and physical faculties, as well as the development of the emotional nature. Mere physical and intellectual power may, however, do harm if achieved regardless of moral training. Morality is essential to the welfare of the State. History affords numerous illustrations of the disastrous results that follow when the intellect is sharpened, but the moral nature neglected. The rapid growth of knowledge among the community, and the increased power which intellectual attainments give, render the question of national ethics more and more pressing on public attention. The extension of commerce, the growth of industries, the spread of democratic institutions, and the dependence of individuals and communities upon one another, make it imperative that principles of righteousness should form an essential part of every child's education. ・・・ ふむ,立派な文章,と思って日付を見たら,(Originally Published 1897)とあった。
野村克也の人生哲学「不器用な方が最後は勝つ」(2011.08.22)
(http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/text/201108210003-spnavi.html) 一読,感心した。 多くの人を説得するのではないか。
久しぶりに歎異抄
第二条 一 おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、 たづねきたらしめたまふ御こころざい、ひとへに往生極楽のみちを 問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存 知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめして おはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししから ば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もお よびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願 まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことなら ば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はから ひなりと云々。 親鸞が京都に去った後の混乱(善鸞事件)で不安に陥った常陸門徒たちが,信心の確認をもとめて京都の親鸞を訪ねたおりの対話を記録した名高い箇所。 その最後の部分(下線部)。 もし阿弥陀仏が正しければ,釈迦も正しい。もし釈迦が正しければ善導も正しい,・・・,もし法然が正しければ親鸞も正しい。 疑い深い人なら,そもそも出発点の阿弥陀仏の本願は正しい?その保証は?とさらに尋ねるだろう。 しかし,親鸞の話のポイントはそこにはない。 私親鸞は,阿弥陀仏(法蔵菩薩)をはじめ多くの先人を敬愛,信頼している,というのが要点。 信仰のベースをなすのは,教え自身の説得力もあるが,最終的には師,時代を超えた師匠たちへの敬愛・信頼なのだ。 (時代をともにする,しないにかかわらず)「よきひと」はこの世の宝,と思う。
「米国製エリートは本当にすごいのか?」(佐々木紀彦著)
という新刊の書評を読んだ。 (http://book.asahi.com/reviews/column/2011081500002.html) そこから本のポイントを拾い上げると アメリカの一流大学でも学部はたいしたことないけど、大学院でおこなわれるエリート教育はすごい。 米国のエリート教育では経済学と歴史学を重視している。経済学は今の世の中を深く理解するのに必要だし、過去に学ばなければ前進はない。 学部生には大量の本を読ませ、レポートを書かせ、発表や討議をさせる。その量、4年間で推計480冊。 書評氏は,結果として生産された米国製エリートが,ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン攻撃、イラク侵略などろくでもない戦争ばかりやったということを理由に,そんなエリートを生産する必要はない,という結論にもっていっている。太平洋戦争中,技術者がレーダーの重要性を具申したにもかかわらず,「鍛えに鍛えた目」にかなうものない,と言って却下した軍上層部と似ている。 あちらが英語で書かれた本を自由に読めるのに対し,こちらはそうでない,という無視できないハンデイはあるものの,学生には大量の本を読ませるのは賛成。単純計算でひと月に10冊。できない数字ではない。 指導的な立場に立つ人々には質・量豊富な教育をあたえるべきだ。政界の大貧困や原子力村のあのていたらくを見て,いっそうそう思う。 ![]() 最近になって「否定神学」(apophatike theologia)に関心をもつようになった。 これはキリスト級神学における方法論の一つで,超越者である神については「・・ではない」という否定的な述語によってのみ記述できる,とする考え方。 この考え方においては,「神は存在する」,「神は全知全能である」,「神は善である」等々は言えない(言えるというのが「肯定神学」)。 (日本語Wikipediaに否定神学の簡単な紹介がある。必要最小限の紹介であるが参考になる。 http://donamajicshow.tumblr.com/post/123275851/mysticism-negative-and-positive-theology もコンパクトな説明)。 なぜ否定神学に関心をもつようになったか? 真,善,美,自然法則等のほとんどの(すべての?)哲学的概念が(経験を超えた)超越者であることに(または,ありうることに),遅まきながら気づいたからである。 神は超越者の一つにすぎない。 この見方からすると,否定神学的発想ははば広い適用範囲をもちうる。 Wikipediaから例を拝借すると; ドイツ神秘主義の影響の下にあるクザーヌスにおいては、神は万物の原理であるために、かえって神に作られた万物は原理としての神を完全に理解できないとされ、神の人間に対する本質は「知解されえない」ことにおかれる。この人間の本質的な無知を自覚することが、人間にとって最上の知、「知ある無知」である。 こうした中世の神秘主義的否定神学は、ルター派とくにシュヴァーベン敬虔主義に影響し、そこからカントの非述語的な存在概念や、ドイツ観念論における神および絶対者概念の成立(バタイユが指摘するように、特にヘーゲルのそれ)にも影響した。 またハイデッガーの存在論などにも類似の思考がみられる。ハイデッガーは存在を存在者でないと定める。その定め方は極めて否定神学システム=「この世のあらゆる概念“でない”というシステム」に近いといえよう。 また、老荘思想における“無”は、日常世界のあらゆるもの“でない”から“無”と名付けられた点で、これも否定神学的な方法論であると言えよう。 神等を「(科学的言語によっては)語ることのできないもの」と特徴づけたウィトゲンシュタインもこの系譜に属すると言ってよさそうだ。 超越者に関する思考実験であるという点で神学と哲学は近いなあ,論理的には哲学の一部が神学,というのがこのところの私の感想。 フランス現代思想において否定神学が議論の対象となってきたもよう。 ざっとチェックした範囲では,批判の対象として否定神学が扱われている。 私の関心と重ならないかもしれないが,少しかじってみようかな。 ![]() 日光東照宮の三猿は名高い。 3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠している。 かれらは"Three wise monkeys"として世界に知られ、「見ざる、聞かざる、言わざる」という叡智の3つの秘密を示している,とされる(Wikipedia)。 三猿をシンボルマークとする研究がある。 「無知論」(agnotology[by Robert N.Proctor], agnoiology, the science or study of ignorance) である。 無知はしばしば特定の意図をもって社会的に構成される。 その研究が無知論ないし無知学である。 スタンフォード大学のRobert N.Proctorがそのリーダー。 構成された「無知」の代表例としてProctorが挙げるのは,タバコの発がん性の(企業による)意図的隠蔽である。 Cancer Wars:how politics shapes what we know and don7t know about cancer(1995) 2005年には,スタンフォード大学で,Proctor夫妻により “Agnotology: The Cultural Production of Ignorance” と題する会議が開催されている。 認識論(epistemology)の新しい展開がいろいろ模索されている(認識成立に至る過程の分析(Hintikka),「知る」の実際の用法についての実証的研究など)。 そのなかでも,「知」や「無知」が社会的に構成され,重要な(プラス・マイナスの)機能を果たしているという点に注目する「無知論」(agnotology)は興味深い。 3.11以来、三猿の本場であるわが国で、いろいろな「知」や「無知」が社会的に構成され,見過ごせない重大な被害を人々にもたらしている。 内閣が議事録を作成しないとか、電力会社による「やらせメール」など、あきれはてた「構成」がわれわれの目前で行われている。 agnotology, agnoiologyという名前の由来 Its name derives from the Neoclassical Greek word ἄγνωσις, agnōsis, "not knowing" (confer Attic Greek ἄγνωτος "unknown"), and -λογία, -logia. More generally, the term also highlights the increasingly common condition where more knowledge of a subject leaves one more uncertain than before. (under construction)
藤田正勝 (著) ,2006年刊,を読んだ。
以前「善の研究」を購入と書いたものの,未だ手をつけていない。 徒然なるままに本書を読み始めたのだが,これが読みやすい。 ざっと一読,「西田幾多郎」がわかった気になった。 全体に明晰。とくに西田の人となりを述べた序章がよいと思った。 純粋経験,真の我,場所の論理,平常底(びょうじょうてい)などの基本概念を了解。 西洋哲学を少し知っていれば,理解に大きな困難はない。 それだけ一般読者向けに分かりやすく書けているということかもしれない。 良書だと思う。 西田が自分を「坑夫」にたとえている点,実在を定義するにあたり知のみならず情意を加えている点,宗教的直観は,われわれの日常的直観と別種のものではない,という主張が私には印象的だった。 晩年の論文で,西田は「哲学は我々の自己が真に生きんとするより始まる。我々の自己の自覚の仕方であり,生き方である」と述べているとのこと。これにも同意。 私は親鸞上人の大ファンであるが,格別浄土真宗ファンというわけではない。西田についても同じことになりそうだ。
池波正太郎「真田太平記」を読んでいる。
![]() 若い頃読んだから2度目。 もうろくしたせいか、最初の方ははじめて読む感じ。 さすがに途中から、見慣れた風景のようになった。 昔NHKドラマ「真田太平記」を見た記憶がよみがえってきた。 女忍び「お江」(おこう)がすばらしかった。 調べたら、「遥くらら」という宝塚出身の女優さんだった。 彼女の「・・まいた」というセリフもよく覚えている。 真田忍者の棟梁「又五郎」役の俳優も渋かった。 真田昌幸を丹波哲郎、真田信之役を渡瀬恒彦がそれぞれつとめていたが、これもはまり役。 今回も彼らのイメージで読んだ。 やはり私はお江がよい。 ドラマを見ていてよくわからなかったのが「滝川三九郎」。 大阪夏の陣のおり、旗本として、幸村軍の突撃からよく家康を守り、戦後家康から「三九郎、何か恩賞の希望はないか」と聞かれ、「左衛門佐(幸村)の遺族の身柄をお預け願いたい」と望み、周囲の家臣に目を配りながら「欲がないのう」と家康に許されたシーンを覚えている。 今回「真田太平記」を読み直し、彼の快男子ぶりはわかったが、同じ著者に「滝川三九郎」という短編があったので、あわせて読んでみた(短編集「武士の紋章」収録)。 大いに気に入った。 池波作品は、登場人物の人柄がよいので安心できるが、「滝川三九郎」は絶品クラス。 彼の世話で、幸村の娘阿梅が伊達政宗の重臣片倉小十郎に嫁いでいる。 幕府の目もあったろうに、さすがは「鬼小十郎」。 三九郎最期の言葉は 「束の間の一生にしては、いささか長すぎたようじゃが、いまこそ三九郎一績、天地の塵となるぞよ」 とのこと。 創作だと思うが,いい言葉だ。 著者同様,私もそのように,と思う。 家康の懐の深さも印象的。 追記 中古全集を求めたはずが,最期の数巻が見当たらず,近くの図書館から借りてきて読んだ。 すべてが終わった後の最終巻が感動的。 お江が長命を保つのは読者としてありがたい。 「おじ様」と上田に移り住むのもよい。 阿梅と弟妹たちは片倉家,伊達家に庇護されて,伊達真田氏として命脈を保った。 片倉家の本拠白石市では,幸村に縁ある「鬼小十郎まつり」が開催されているとのこと。 勇壮な祭り風景をyouTubeで拝見。真田の赤備えなど立派。音楽もよし。
系外惑星グリーゼ581dに「生命存在できる」、仏研究
(http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2800731/7225043) 【5月18日 AFP】 フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究チームは16日、地球から20光年の距離にある惑星が、生命生存の条件を満たしている惑星であることを確認したと発表した。生命生存の条件を満たしているとされた太陽系外惑星は初めて。 この惑星は、赤色矮星「グリーゼ581(Gliese 581)」のまわりを公転する惑星「グリーゼ581d(Gliese 581 d)」。地球の7倍の質量を持ち、大きさは約2倍、地球から最も近い太陽系外惑星の1つだ。グリーゼ581の、いわゆる水が沸騰してしまうほどに暑くはなく、水が常に凍ってしまうほどには寒くない「ハビタブルゾーン(生命居住可能領域)」の外れを公転しており、気温はちょうど水が液体で存在できる程度だ。・・・ 昨夜BSを見ていたら、毛利さんがでていて、この惑星の話をしていた。 水が50%の惑星。 近くに(地球から20光年)こんな惑星があるとは、うれしい発見。 ![]() 先週末、仕事で四国・松山にでかけた。その旅行記。 7時40分過ぎに最寄りの駅で列車に乗る。新幹線利用、岡山で「しおかぜ25号」に乗り替え(2時34分発),5時過ぎにJR松山駅着。 駅前に出ると,富山に似ている感じ。路面電車(坊っちゃん列車?)に乗り,20分ほどで終点道後温泉駅着。 距離に関係なく一律大人150円(小人80円)、というのはうれしい。 ホテルを探して少しぶらついたら,突然目の前に「道後温泉本館」。ホテルはその真横だった。 道後温泉は聖徳太子や額田女王が入ったとされる名湯。3階まである。すだれ越しに浴衣姿が見えた。風情あり。 ホテルにチェックインした後,ゆかた,せった姿ででかける。歩いて1分。何種類かあるが、一番安い400円を選ぶ。入湯。豊かな温泉だ。 入浴後はすぐ隣の「道後ビール」店で食事。「漱石ビール」を飲む。黒。ドイツビールに似た味。うまい。 翌日、昼休みに松山城に登る。足弱なのでロープウェー利用。石垣が見事。山頂に天守閣があり、内部を見学。天守閣から松山の町が一望できる。遠くに瀬戸内の海が見えた。見事な山城。 仕事が終わった夕方、電車で三津浜にゆく。NHKドラマ「坂の上の雲」で見た浜が見たい。三津浜駅で降りて、地元のひとらしき若い女性に道をきく。途中まで案内してくれ、ここが私の家です、すぐ近くなのに浜には行ったことがない、とのこと。笑っていた。 お礼を言って、商店街をまっすぐ行ったら、ほどなく港に出た。島が右手遠くに。めざす浜はもっと北だったようだ。日も暮れてきたので、今回は断念。釣りをしていた親子連れに、何がつれるのですかとたずねたところ、小アジねらいとのこと。 帰り、松山市駅にまわる。JR駅と違って近代的駅。ここが松山の中心か。レストランを探そうと思い少し歩いたが、適当な店がみつからなかったので、再び坊ちゃん列車に乗る。めざせ道後温泉本館。着いてみたら名物太鼓の演奏中。何ももっていなかったが、60円でタオル&せっけんを借りて入場。朝も入ったからこれで3度目の入湯だ。名湯でさっぱりしてから、昨夜入った麦酒館で今度は「マドンナビール」をためす。 この夜は少し離れた別のホテルに泊まる。翌朝早くそのホテルの本館の屋上露店風呂へゆく。これはきれい。目の前が松山城の豊かな緑。これもいい湯だ。 翌日9時11分の特急に乗り帰る。家族へのお土産は、タイ飯、タコ飯。松山は山頭火終焉の地で、一茶が二度訪れた町。それぞれ、ゆかりの場所があるそうだが、時間がなく今回は見送った。秋山好古・真之兄弟の生家、好古のお墓は見た。普通のお墓で好感がもてる。さすが華美をきらった好古将軍。 松山は「坊ちゃん」と「坂の上の雲」の町。中心にすばらしい松山城をもつ。その周りを回る坊ちゃん列車も便利だ。道後温泉はもちろんすばらしい。いい町だ。また行きたい。外国の方にもおすすめできる。温暖な気候、瀬戸内の海、日本最高の松山城、最高・最古の道後温泉、ついでにハイクと坊ちゃん、マドンナのおもてなし。ビールもうまい。「最後の武士」秋山好古将軍のふるさとでもある。 正岡子規が、 春や昔 十五万石の 城下哉 松山や 秋より高き 天守閣 とうたっている。彼の人間の良さがしのばれる。松山のすぐれた風土・歴史がはぐくんだよさだろう。
「教養」のない日本のエリート教育(アゴラ)2月10日
(http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110210-00000002-agora-soci) かなりゴツゴツした文章だが, 安易なHow To本の山を見るたびに、「若いうちは手っ取り早く小利口に器用になることよりも、自分の器を大きくすることを考えればいいのに」とため息をつく。重要なのは「How To Do」ではなく「How To Be」なのだ。 には同意。 とりわけエリ―トを相手にする方々は留意すべきだろう。
諸星 裕『大学破綻 合併、身売り、倒産の内幕』(角川書店, 2010年)を読んだ。
少子化がすすみ大学全入時代に突入&リーマンショック後の不況による超就職氷河期を背景に,大学はどうなっている?という興味があって,図書館で手にとってみた。 拾い読みだが, ・2010年代778校中100校近くが消滅する ・大学は(どのような人間を育成するかという)「ミッション」(使命)によって定義・改革されるべき ・日本に必要なのは研究大学,教養重視型大学,偏差値の高くない人たちを鍛え上げる大学の3つ(ただし,それらの間に優劣なし) ・大学の産物は授業。それぞれに価格をつけ,たとえば夕刻社会人の方々に販売するのもよし(卒業生でもいいのだろうが,より細かい単位である授業の方が操作可能性が高い,たとえば「販売」できるということのようだ) ・教育の目的は学生の選択肢をひろげること(自由度をひろげてあげること) ・教育の質確保のためには学生と教員の比率が重要。アメリカの平均的大学では約20対1。名門大学になるとたとえば7対1。大半マスプロ授業プラス,わずかのゼミでお茶を濁す,というのはダメ。 等々なるほどと思った。 著者は日米大学事情に通じた人のようで,どういうひとだろうと思い顔写真を見たら,テレビでときどき見た人だった。クイズ番組? 金沢工業大学と日本福祉大学が中規模校の成功モデルとしてあげられていた。数年前の新聞記事で金沢工業大学は知っていたが日本福祉大学は知らなかった。興味深い。HPを拝見しよう。四国の国立大学で,かなりの数の常勤教員の授業担当が週一コマというところがあることも指摘されていて,びっくり。文科省がよく許していると変に感心。 事務担当の方々の大学運営にかかわる重要性も強調されていた。これもなるほどと思った。日本企業が外国人学生採用率を3割程度にあげはじめた昨今,目の前にある危機に対する処方箋として本書は有益と思った。文科省の方々の必読書?
ザッケローニ監督、意外な素顔 派手を嫌い武士道に傾倒
(http://www.excite.co.jp/News/soccer/20110126/Fuji_SP_zak20110126002.html?_p=1) 日本の伝統的価値でどこへ出しても恥ずかしくないものはやはり武士道だろう。 オシムさんやザックさんが注目してくれるのはうれしい。 「カミが死んだ」後のわれわれの価値は武士道しかない。 「あさま山荘」風内ゲバ内閣を見るにつけそう感じる。 企業もまじめに働くサムライを積極的にとってもらいたい。 「サムライ密度」を高めたい。 なお,サムライは日本人限定ではない。まじめに働き武士道を是とする人はすべてサムライである。オシムさんやザックさんはサムライだし,鬼貫太郎も根本中将もサムライである。
門田隆将「この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(集英社,2010年刊)を読んだ。
![]() 大変気に入った。 中国国共内戦。ソ連の援助を受け3大会戦に勝利した共産党軍が北京入城。1949年10月1日天安門広場で毛沢東,中華人民共和国の建国を宣言。 敗れた国民党軍は台湾に移り,大陸にはわずかに廈門(アモイ),金門島その他を残すのみ。 掃討作戦よろしく共産党軍が廈門,金門島に殺到する。 国民党軍,守りきれないと見て廈門から退却,金門島に兵力を集中。 2万とも3万ともいわれる共産党軍を上陸させたうえで殲滅,奇跡的な勝利を遂げる。 これが金門戦争。 連戦連敗の国民党軍に決定的勝利をもたらしたのが,軍事顧問として湯恩伯将軍を助けた根本博元陸軍中将(「林保源」という中国名を使用)。 根本中将は終戦時,北支那方面司令官の地位にあり,内蒙古の在留邦人4万人を守るために武装解除の命令を拒絶してソ連軍と戦った。 その際,「怨みに報ゆるに徳を以ってせよ」と布告して,在留邦人や35万の日本将兵を無事帰国させてくれたのが蒋介石国民党総統だった。 国民党軍総敗軍のニュースを聞き,蒋総統のそのおりの恩に報いるためあえて密航,台湾入りした・・・ サスペンスのような緊迫感をもって,金門戦争が描写述されている。 中国ー台湾の国境を確定させたこの戦争は,周瑜率いる呉が曹操率いる魏の大軍を破った赤壁の戦いの現代版ともいえそうだ。 私はこれまで金門戦争についてほとんど注意を払わなかったし,根本中将については全然知らなかった。 両者および日台友好の歴史について教えてくれる好著。 金門島で日本人の義を示し「自由中国」を守った根本中将は,満州でユダヤ人を救い,北海道ではソ連軍の進撃を阻止した樋口季一郎中将とともに「戦後」の名将だ。 上は彼の写真。凄味のある風貌。やくざの親分顔負け。さぞや頼りになっただろう。 金門戦争は国民党にとってほとんど唯一の勝利だった。内外にアッピールするに際し,国民党の力で勝ったとする必要があり,日本人軍事顧問の貢献は国民党の正史から消されていったとのこと。それを発掘したのが本書ということになるが,根本さんの望みは日本人としての恩返しだけだったから,目立たないことは彼の望むところだったかもしれない。 梯 久美子「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」は,忘れられた名将として栗林中将に光を当てた。それに比肩する傑作。戦争後60年が過ぎた。すぐれた先輩がいたことを知ることはよいこと。いっそうの日台友好の架け橋にもなる。一読をおすすめしたい。 「台湾存立の戦いに貢献した根本博元陸軍中将、台湾国防部公式に功績を ... (http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/383273/) 戦神・根本博中将の義勇…台湾を死守した大和魂 東アジア黙示録 ... (http://dogma.at.webry.info/201008/article_5.html) 鈴木大拙 『禅と日本文化』北川桃雄訳(1940岩波新書)を読んだ。内容は,松岡正剛の千夜千冊『禅と日本文化』鈴木大拙(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0887.html) で大体分かる。 禅しろうとの私には,「第1章禅の予備知識」が参考になった。 とくに,10頁にある,禅の短い要約が印象的。 禅師のお名前は,今北洪川,無関普門,宗峰妙超,関山慧玄など深遠かつゴツゴツしていてよう読めん,というケースが多い。 禅とは「中世のロック」,「思想界のロック」だろうか。 古代ギリシャ「樽の哲学者」ディオゲネスに通じる音楽で,私は好きである。 本文は,日本美術,武士道,儒教,茶道,俳句に対する禅の影響を説明している。 原文は英文であちらの人々向けの本。 西洋哲学,心理学の概念装置を使って禅や日本思想を説明しているのはわかりやすさの点からも当然と言えば当然だが,「やはり野におけ蓮華草」という気持ちも否定できない。 「禅と俳句」の章で,蕪村の 釣鐘にとまりて眠る胡蝶かな が紹介されている。 俳句にも暗い私は知らなかった。 非常な名句である。 大拙は 蝶は,(「分別」などとは関わりのない)絶対信仰と無畏の生(自由)を営んでいる,それを蕪村はとらえている,と解釈している。 この句を読む東洋人は荘子の「胡蝶の夢」を思い起こすだろう。 眠る胡蝶は夢を見ていそうだ。 宇宙全体の夢だろうか。 宇宙の中の胡蝶がやすらかに宇宙の夢を見ている。 見えているのも胡蝶の夢の中の一場面かもしれない。 本書は第78刷とのこと。 このようにクオリテイの高い書物が読み継がれるということは立派。
「ゲ―デルの哲学」を読んで,神の存在証明に関心をもった。
神もたしかに知識の限界においてあらわれる概念。神の存在は,宇宙があるという謎の説明として無碍には否定できない可能性。 これまでの存在証明を整理すると 1.存在論的証明(11cアンセルムス):神の定義からの演繹ontological argument 2.宇宙論的証明(13cT.アキナス):第一原因としての神cosmological argument 3.目的論的証明(1cパウロ):世界の規則性の原因としての神 4.道徳論的証明(18-19cカント);神とは道徳が有意味であるために要請されるもの に分類される。 ごくごく簡単に説明すると, 1.神とは完全な者である。完全であることは存在することを含む。よって,神は存在する。 おおざっぱに要約すれば,これが存在論的証明。デカルト,ゲーデル(1970)は1。 2.リンゴが木から落ちた。それには原因があるはずだ(どんなものにも原因がある,とするのが因果律causality)。その原因そのものにも原因があるはずだ。・・・原因の系列の最後に原因があるはずだ。それが第一原因としての神。これが宇宙論的証明。 3.世界の出来事には規則性がある。すべてが特定の目的のもとにできているように見える。これが実現するためには,それを設計した存在者がなければならない。それが神。これが目的論的証明。 より細かい分類と批判が B.ラッセル:From: Why I am not a Christian, 1927, Chap.5 (http://russell.cool.ne.jp/beginner/GOD-EX.HTM) にある。 カントは,存在は性質ではない,として1を退け4を選択した。 道徳に従って生きることが有意義であるためには,神の存在が必要。 言いかえれば,もし神が存在しなければ,道徳は空しい。 神は存在するか?理論理性ではそれを証明できないし,存在しないことも証明できない。 だから,道徳は空しいことを証明することもできない。 道徳にとってこれで十分。 4の道徳論的証明は,おおざっぱにいえば,こういう議論。 存在は性質ではないとすると,存在とは何か。 クワインの「存在するとは変項の値となることである」という主張が名高い。 (Quine's 1948 article, "On What There Is," first published in the Review of Metaphysics. The article is included in Quine's book, From a Logical Point of View (Harper & Row, New York: 1953)) 簡単に言うと,次の議論か(未確認)。 P(x)であるようなxが存在する iff xはPである for some x which belongs to a set D これは論理学のふつうの分析だが,これによれば, 存在するかどうかは,ある世界で特定の出来事が成り立っているかどうか,と言いかえられる。 つまり,「存在」は消去できる。 これを神に適用すると, 神は存在する iff xは神である for some x which belongs to the set of everything 神が存在するかどうかは,特定のものcについて,「cは神である」を認めるかどうか,に還元される。 たとえば,X氏が神であることが,するわち神が存在するということ。 この存在消去主義は私には魅力的。 なぜ世界は存在するのか?どのようにして無から存在が生成したのか?という難問が消滅するように思えるからだ。 しかし,本当にこの問題は消滅するのか。 (工事中)
年末年始,高橋昌一郎氏の「理性の限界」,「知性の限界」,「ゲ―デルの哲学」を読む。
駆け足だったが,みな楽しく読めた。 個人的にはゲ―デルが一番面白かった。晩年の「神の存在証明」にはとくに感心しなかったものの,彼の伝記は興味深い。アインシュタインやモルゲンシュテルン,フォン・ノイマンなどとの交友に思わず読みいった。 一般の方々が哲学に関心を寄せるのはなぜだろう? 私見では,次の3つが主な理由。 1 哲学は知識の限界を問題にしているようだが,知識の限界は興味深い。われわれの知識にはどのような限界があるか知りたい 2 哲学はいかに生きるべきかの指針をあたえてくれそうだ 3 哲学は科学とは違うようだ。哲学って一体何をやっているのか,どういう議論をやっているのか,ちょっと興味がある 高橋さんの本は,とくに1の二―ズにこたえている。 ハイゼンベルクの不確定性原理,ゲ―デルの不完全性定理,アロウの一般可能性定理(民主主義のパラドクス)といった定番から,帰納の問題,確証のパラドクス,指示の不可測性,理論の決定不全性,人間原理,神の存在証明などの諸「限界」をカバーしている。 おすすめできると思う(フォローしにくいところは適当にスキップすればよい)。
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