大人になること |
サンドラ ステリチ
私の母は1911年に生まれ,ボストンのノースエンドで育った。
彼女はイタリア生まれの両親のもとに生まれたイタリア系アメリカ人だった。
彼女には8人の兄弟姉妹がいた。
彼女は両親にとってはよい娘であり,兄弟姉妹にとってはよき姉であった。
彼女はよい学生でもあった。彼女は学校が好きだった。
やがて彼女は一つの職をえたが,彼女は働き者でもあった。
8歳のとき彼女は伝染性の流感により父親を亡くした。
1919年のことだった。
彼女の母親は45歳のとき最初の脳卒中を経験した。
その後さらに深刻な脳卒中を幾度か繰り返し、1944年に61歳で亡くなった。
母は幼なじみと結婚し,二人はボストンのウエストエンドに引越し,そこに新居を構えた。
彼女は最初の子どもを失ったが,その後二人の子どもにめぐまれた。
息子と娘である。
二人は6歳半年が離れていた。
母の料理の腕前は大したものだった。
彼女のいる台所はいつも家族の暮らしの中心だった。
わが家では、家族の友人たちはいつも歓迎された。
かれらは、新鮮で豊かで素晴らしく美味しい食事やスナック,デザート,サラダ、そのほか何でもーおなかを満腹にし舌に喜びを感じさせるもの、にありつくことができた。
母は私たちをよくボストンの町に連れて行ってくれ、ボストンコモンの芝生に寝そべったり,公園の池でスワンのボートを漕いだり,チャールズ川のほとりを散歩したり遊んだりさせてくれた。
また,母は私たちをボストンガーデンのアイススケートショーやサーカスの見物に連れて行ってくれた。
7月4日には花火見物に連れて行ってくれた。
私たちはノースステーションに近いランカスター劇場へ何度か映画を見に行ったし,ジョーダン湖近くにあるサンタクロース村にも行った。
その帰り、ボストンコモンを横切りクリスマス用にライトアップされた木々を見たこともあった。
母は私たちを町の外にも連れて行ってくれた。
私たちはブリンストラッブに行ってジョニー・マチスやシュプリームス、フランキー・アヴァロンを見た。
夏には、リビールビーチに出かけて砂の上に寝そべったり、ジェットコースターに乗ったり、いろいろなゲームを楽しんだりした。
ケープ・コッドにも行った。
もう少し大きくなってからは、夏休みを使って家族でニューハンプシャーのスナピー湖にも行った。
私たちは、イタリアン・ソーセージやステーキ、ハンバーガー、ホットドッグ、イタリアン・ロール、母の特製の炒り豆、ポテトサラダなどをもってよくバーベキューを楽しんだ。
私たちはきまって湖で泳いだものだが、母はいつも気をつけてねと言いながら、湖のドックから私たちを見守ってくれた。
私たちは、ロブスターを食べにロックポートによく行った。
窓越しに料理される串刺しの丸焼きチッキンを食べにチックランドにも行った(ここは私の大のお気に入りのレストランだった)。
特大のサードバーガー目当てにハワード・ジョンソンに、またホットドッグを食べにジョーアンドネモの店によく行った。
そういうとき私たちは歩いたり、地下鉄を使ったり、ときには父の運転する車で出かけた。
私が高校に行くまで母は運転免許を持っていなかった。
その後免許をとったものの、私のためにとったようなものだった。
私が必要とするところに私を連れて行ってくれた。
毎金曜日、母はノースエンドで買い出しをした。
16歳のとき私は運転免許をとり、車を買った。
それからは、私は、放課後アルバイトしていたエルム農場市場へ車で通うことができるようになった。
毎金曜日私はノースエンドまで母と彼女の買い物袋の山を迎えに行った。
家に帰る途中、母と私はきまってチェルシー通りのカッツの店で
焼きたてのバーゲルとクリームチーズ、バターを買い込んだ。
運転する私の横で、母は焼きたてのバーゲルにクリームチーズやバターをぬりこんでいたものである。
母と私はよく長い時間かけてショッピングを楽しんだ。
たいていはフィレネの地階の店だった、いつもそこでというわけではなかったが。
母は私に美しい服を買ってくれたー彼女は私のためにいつもユニ-クでゴージャスな色合いの服を選んだ。
学校の友だちのほとんどだれよりも私のほうがたくさん服をもっていたと思う。
母は私を公立学校に入れた。
はじめはウエストエンドのウィンチェルスクール、次にドルチェスターのラテン語女学校に。
市の開発計画により私たちがウエストから立ち退きを余儀なくされた後、私たちはソーガスに家を買い、私はソーガス高校に行った。
高校卒業後私はソーガスからタフツ大学に通った。
父と母は私が大学の寄宿舎で暮らすのを望まなかったのだ。
母は私の学校の成績がよいことを誇りにしていた。
そしていつも、私が最良の教師のもとで学べるように努めてくれた。
彼女は2つの世界で生きなければならなかった。
彼女自身が背負っていたイタリアの文化と彼女の子どもたちの文化であるアメリカの文化である。
これらの2つの世界が彼女と彼女の子どもたちに同じことを要求するとは限らなかった。
そして、私たちには見習うべきロールモデルがまったくなかった。
イタリア移民の第一世代にとってここは新しい世界であったし、とりわけ新しいアメリカ文化で娘を育て上げる人にとってはそうだった。
そして、このアメリカ文化において女性の役割は変化しつつあった。
しかし、彼女はたしかに自分にできる最良のことをした。
彼女は誠実だったし、自分が行なっていることがベストだとかたく信じていた。
そして、彼女は頑固で一徹だった。
自分が正しいと思ったことからひくことは決してなかった。
ちょうど彼女の娘のように。
ありがとう、ママ。
原題:GROWING UP BY SANDRA STERITI
(Boston's North End - A Story and Pictorial Guide, Volume 2, Issuue 3, 2000)
ノースエンドはボストン北部の一角にあるイタリア人街。10年ほど前,そこを訪れたとき、たまたま入ったレストランのカウンターの上に大きめのタウン誌が何冊か置かれてあった。一冊を手にとって読んでみたところ、中に私にとって印象的な文章があった。上に訳出したのがそれである。残念ながら著者のSANDRA STERITIさんを私は存じあげないが、心のこもったすばらしい詩だと思った。(メインブログから転載)