Mellor on Induction |
「帰納の保証」(The Warrant of Induction, Cambridge University Press, 1988)
がある。
前稿で紹介した「ヒュームの問題」にはいろいろな解決案がある。
それらの中でメラーの解決は,次の2点において興味をひく。
(1) ドレツキー(Dretke,1970)やノージック(Nozick,1981)の仕事を通じて知識の分析において現在なおポピュラーな外在主義 (externalism)―信念に保証を与えるのはその信念を引き起こした客観的事実の存在で,それが主体により自覚されているか否かは関係ない、とする―の立場からの帰納の正当化である。
(2) 問題の源は,信念が保証されているためには保証されていること自身保証されていなければならない,という自己告知性の要求(self-intimating requirement)あるいは(その知識バージョンである)人があることを知っているならば,彼はそのように知っていること自身を知っていなければならない,というKKテーゼ(the KK thesis)にある,と主張されている。
外在主義的解決と問題の根にkkテーゼがある、という2点の双方に対し,私は懐疑的である。
しかし、ヒュームに対する応答の面白い見本であると思うので、以下メラーの議論を紹介する。
それは次のようなものである。
(なお、これはメラーの批判者コーエン (L.J.Cohen) による要約。この要約そのものにはメラーは文句をつけていないから,メラーの議論の要約として述べてもOKだろう)。
あることを知るということは,そのことについて真で,保証された信念をもつことである,と仮定しよう。あなたが正常な視覚をもち,天気のよい日中,赤い葉にとまった緑色のカエルを見ているとする。見ることが原因となってあなたはそのカエルの色についての信念をもつ。この状況であなたの信念が真であるチャンスはきわめて高い。そして,その信念が実際真であったと仮定しよう。つまり,「そのカエルは緑色だ」という(真な)信念をあなたはもつ。このとき,あなたの観察がその信念を保証している,とメラーはいう。知識と保証された真な信念に関するメラーの仮定によると,このとき「そのカエルが緑色である」ことをあなたは知っている,ということになる。
しかし,とメラーは続ける。そのカエルは緑色だというあなたの信念を保証するものの一部は,あなたが赤ー緑色盲ではないことであるのにちがいはないが,(色盲について一度も聞いたことがなくて)色盲ではないとあなたが信じてなくてもかまわない。あなたが自分の色盲について何の信念ももたないことは,あなたが見ているカエルが緑色であることをあなたが知っていることを妨げない。だから,そのカエルが緑色であることに対するあなたの保証は自己告知的(self-intimating)でなくてはならない(つまり,その保証自身保証されていなくてはならない)とはなりえない。そう知っていること自身を知ることなく,あるものが緑色であることをあなたが知ることができるのでなければならない(Mellor, 1988, p.15)。
メラーは,知覚に由来する信念と帰納によりえられる信念とのアナロジーを展開する。あなたが見るカエルが緑色であればあるほど,また,それら緑色のカエルが多様であればあるほど,他のカエルも緑色だろうとあなたが予測する傾向は高まる。前提が真のときに結論も真である十分高いチャンスがあるならば,その推論の習慣は保証される。次のカエルも緑色だろうと予測するあなたの帰納的傾向を保証するのは,すべての(もしくは,ほとんどすべての)カエルは緑色であるという法則(もしくは統計的傾向)である。
一匹のカエルが緑色であるというあなたの信念が,あなたがそれを見てとることにより保証されるのと同様に,したがって,「信念を真とする事実はその信念をあなたの中に生じさせたもの」(ibid. p.18)であるのと全く同様に,次のカエルは緑色だろうというあなたの帰納的予測は,すべてのカエルは緑色であるという法則により保証される。なぜなら,あなたのその習慣を引き起こしたのはこの法則の存在であるから。そして,目の前のカエルは緑色だということを信じることに対するあなたの保証が自己告知的である必要はないのと同様に,カエルの色に関するあなたの帰納的予測も自己告知的である必要はない。(自己告知的であるためには,法則を知る必要があるが)「法則を知ることなくカエルが緑色であることを帰納により知ることができる。これはちょうど,色盲ではないこと知ることなくカエルが緑色であることを,それを見ることによって知るのと全く同じである」(ibid. p.22)。メラーによれば,観察可能な諸性質をつなぐ法則により帰納は保証される。
次は,コーエンによる批判。
(L.J. Cohen(1989): “Are Inductions Warranted?” Analysis 49, 1-4)
(メラーの論文を読む限り)車を運転するとき,メラーは自分の信念に基づき行動する用意があるはずだ,たとえそれに対する根拠が見出せないとしても。(メラーの住んでいる―筆者注)ケンブリッジのドライバーはそのことに注意したほうがいい。というのも,これは潜在的に危険な状況だからだ(メラーは自分で根拠を言えない信念に基づき運転する)。
疑いもなく,メラーの信念の大部分は関連する事実によって引き起こされている。しかし,われわれはみなときに間違いを犯す。そして,間違いの危険性を最小化すべくわれわれは努力する。だから憂慮されるのは,行動にかかわる信念について何らかの理由をもつべきだということは重要ではない,とメラーが考えている点だ。
ふつうのドライバーは異なる。責任あるドライバーは根拠のない信念にもとづき行為することを避けようと努めるものだ。「なぜ他の車が止まっていると信じたのか」と法廷で後に尋ねられたとき,答えられなかったとしたら彼は間抜けだろう。
知覚的信念について言えることは帰納的信念についても言える。薬を処方する医師は,その薬が患者の容態を改善するという信念に対しいくつかの根拠があると信じていることが期待される。「あなたが処方した薬が効くとどうしてあなたは信じたのですか」と聞かれて,答えられなかったとしたら,その医師はかなり馬鹿にみえるだろう。
自己告知的ではない保証をもつ信念は,生活の役に立たない。ある信念が間違っているという危険があることに気づいている責任ある行為者はふつう,そのような信念に基づいて行為することはない。メラーは,懐疑論者が望むようなタイプの保証を帰納に与えていない。
(一応,続く)
*イギリス人のいう極東住いなので,イギリスのことに疎いのは残念。
Jonathan Cohen
A philosopher of extraordinary breadth of vision, his insights took in international law, the nature of meaning, and belief
The Guardian, Saturday 30 September 2006
(http://www.guardian.co.uk/obituaries/story/0,,1884313,00.html)
を見つける。
Laurence Jonathan Cohen, philosopher, born May 7 1923; died September 26
2006
4年前,ジョナサン・コーエン死去。83歳だったとのこと。
上は,大御所が新進気鋭に手ほどきしている,という構図のようだ。
第2次大戦のおり,暗号解読員として,日本語を勉強した後,1942年から45年まで極東で任務に従事したとのこと(情報部員だったS.モームのようだ)。
哲学を離れれば,友人とテニスをし,スイスその他の山歩きを楽しむ気さくな人物だったよし。