釵頭鳳 |
陸游は20歳のとき母方の縁につらなる唐琬と結婚した。夫婦仲は睦まじかったが,なぜか唐琬が陸游の母親から嫌われ(一説には,夫婦仲がよすぎたからとも,またこどもが出来ず,それについてうそのつげ口をされたからともいわれる),1年ほどで離縁させられてしまった。内緒で家を借り隠れて逢っていたが,それも母親の見つかるところとなり,以後会うことができなくなった。やがて唐琬は宋の帝室につながる趙士程に再嫁,陸游も王氏と再婚した。それから十年の歳月が流れた紹興25年(1155)の春のある日,紹興の兎跡寺の隣の沈氏の園で二人は偶然再会する。唐琬は一緒に来ていた夫の許しをえた上で酒肴を陸游のもとにとどけさせた。そのおり悲嘆にくれた陸游が庭園の壁に書き付けたのが、「釵頭鳳」(さいとうほう,かんざしの意)という曲にあわせて作った次の詞である。
紅酥手 黄滕酒
滿城春色 宮墻柳
東風惡 歡情薄
一懷愁緒 幾年離索
錯!錯!錯!
春如舊 人空痩
涙痕紅浥鮫綃透
桃花落 閑池閣
山盟雖在 錦書難托
莫!莫!莫!
紅く酥(やはら)かき手 黄縢の酒
滿城の春色 宮牆の柳
東風惡く 歡情薄し
一懷の愁緒 幾年の離索
錯(あやま)てり 錯てり 錯てり
春舊の如く 人空く痩す
涙痕紅(あか)く(にぢ)みて鮫(ハンカチ)に透る
桃花落ち 閑かなる池閣
山盟在ると雖も 錦書托し難し
莫(さび)し 莫し 莫し
「人空しく痩す」,「涙のあとがハンカチににじんでみえる」とあるところをみると,唐琬本人が黄滕酒(黄色の紙で封をされた酒)を陸游のもとにとどけたのかもしれない。東風(つめたい春風)はこの場合嫁につらくあたる陸游の母親をさす。「山盟(堅い誓い)在ると雖も」とあるところをみると,別れた後も互いに想い合うという誓いがなされていたのだろう。人づてにその詞を聞いた唐婉が返歌として詠んだとされるのが次の詞である。
世情薄 人情悪
雨送黄昏花易落
暁風干 泪痕残
欲箋心事 独語斜欄
難!難!難!
人成各 今非昨
病魂常似鞦韆索
角聲寒 夜闌珊
怕人詢問 咽泪粧歡
瞞!瞞!瞞!
世情は薄く 人の情は悪し
雨黄昏を送り 花落ち易く
暁風乾き 泪痕残す
心事を箋に欲せんとし 独語し欄に斜す
難(かた)し 難し 難し
人各々に成り 今は昨に非ず
病魂 常に千秋(ブランコ)の索くに似たり
角声(軍隊で夜中に吹く角笛)寒く 夜爛珊たり
人の尋問を怕れ 咽泪せしも歓を装う
瞞(あざむ)かん 瞞かん 瞞かん
再会の後まもなく唐琬は世を去る。陸游は85歳まで生きたが、生涯唐琬のことが忘れられなかった。その後も何度か思い出の沈園を訪れる。次は、偶然の再会から40年あまりたった陸游75歳のときの作である。
城外斜陽畫角哀
沈園無復舊時台
傷心橋下春波綠
曾是驚鴻照影來
城壁の上に夕日は傾き、吹き鳴らす角笛の音が悲しい
沈氏の園はもう昔の池や楼閣にかえることはない
心を傷ましめる橋の下で春の水が緑の波をゆらめかせる
ああ、それは驚く白鳥の影(唐琬)をうつしたこともあったのだ
夢斷香消四十年
沈園柳老不吹綿
此身行作稽山土
猶吊遺蹤一泫然
夢は消え 香りも失せて四十年
沈園の柳は年老い 綿を飛ばそうともしない
ゆくゆくは会稽山の土となる身だが
思い出の跡を訪れると しばし涙がとまらない
陸游の号は「放翁」。物事にとらわれない奔放な老人。詠じた詩は3万首に及ぶといわれるこの詩人は直情型の人物だったようだ。天性の詩人といえばそれまでだが、激情にかられて書きつけた詞が別れた妻をどのような立場に置くかについて思いをめぐらせなかったことも、陸游の自責の念を深めたにちがいない。どの詩も千古の(いつまでたっても色あせない)絶唱。唐琬の返歌の現代的感覚に驚く。「心事を箋に欲せんとし 独語し欄に斜す」(思うことを手紙につづろうと思ったけれど,ひとりごとをつぶいて階段の手すりによりかかるだけ)など場面が目に見えるようだ。しかし,やや出来すぎの感あり。彼女の置かれた立場からすると大変危険な詞でもある。残念だが後世の作かもしれない。
沈園での再会の2年前,陸游は科挙受験に挑み(3度目),1次試験(解試)を首席でパスした。しかし,そのとき2位になったのがときの宰相秦檜の孫であった。秦檜は自分の孫が首席になれなかったのを怒り,翌年の本試験(省試)に干渉して孫を首席にし,陸游を名指しで落第させてしまった。その頃宋は北方の金と和議を行っていたが,答案の文章に和議を批判する部分があるというのがその理由だった。権力者の理不尽な横やりにより科挙首席合格者という中国文人最高の栄誉を失った陸游に対する同情は彼の郷里に広くあり,酒肴を贈るという唐琬の行為には不運な陸游をなぐさめるという意味があったようである。
なお,この物語は中国では演劇化されさまざまに演じられている(http://www.frelax.com/cgi-local/getitem.cgi?db=book&ty=id&id=LYYT093074)。また曲の聴けるCDもあるようである(香港Naxos8.555866)。(和訳等にあたり石川忠久「漢詩を読む 陸游100選」NHKライブラリー他を参照させていただきました。なお「詞」については「古代の詞」http://www7.ocn.ne.jp/~kodai-bk/bfz.htmlに解説があります。)
追記
上の記事を書いてからかなりたつ。ネット上の記事も充実してきたようだ。次はYouTubeの美しい映像。
陸游與唐琬-釵頭鳳
(https://www.youtube.com/watch?v=DgBB6QTcadI)