ディベートよりフィロソフィーを |
Wikipediaの「ディベート」がよく整理されていた。
かなりポピュラーなもよう。
論理的思考力,討論力を養うよい方法と多くの人が考え,実践しているのだろう。
しかし,私はソクラテス,親鸞の徒のつもりなので(!?),触手がのびない。
外交や裁判といった厳しい対立の場で有効な手法を学んでも,人格の陶冶には全然役立たないだろう。
どなかかが言っているようだが,論理的思考は両刃の剣。
弱きを助け強きをくじく,といった風に有意義に用いることを教えることが重要。
相手を叩きのめすことを主眼にやっていると,最重要なことがおろそかになりそうだ。
というわけで,Wikipedia中の
「教育ディベートそれ自体に対する批判は、教育が成功したとしても、そのディベート技術が道理に合わないことを正当化しようとする「詭弁家」や[28]、批判だけが得意な「ニヒリスト」を育ててしまう危険性があるという点に集約される[29]。このような批判は、古くは古代ギリシアのソフィストに対する批判[30]から、現代のオウム真理教の幹部に対する批判[31]に至るまで、教育ディベートに対する疑念として根強く存在してきた。このような批判に対しては、一般にそのようなことのないよう注意深く指導がなされているという理由から「教育ディベートに対する誤解」とする立場(望ましい議論のあり方を教育ディベートの定義に含める向き)がある一方、教育ディベートが持つ危険性を認識する立場もある[32]」
に書かれている批判的立場に賛成。
「ディベート魔」など育てたくないものだ。
論理的思考力は別の仕方で教え育てたほうがいいだろう。
できたら,ソクラテス流のフィロソフィーがいいが,これはディベートよりずっとむずかしい。
しかし,議論,実験などを通してみんなでベターな意見を求めていく,というやり方はいろいろなところで行われていて,世の柱となっている,とは思う。
どなたかベターなオピニオン形成手法としてのフィロソフィーを使いやすいかたちに整理して技法化,実践してみる,というのをやりませんか。