2021年 06月 06日
無知論(agnotology, agnoiology) |
2011/7/06
日光東照宮の三猿は名高い。
3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠している。
かれらは"Three wise monkeys"として世界に知られ、「見ざる、聞かざる、言わざる」という叡智の3つの秘密を示している,とされる(Wikipedia)。
三猿をシンボルマークとする研究がある。
「無知論」(agnotology[by Robert N.Proctor], agnoiology, the science or
study of ignorance) である。
無知はしばしば特定の意図をもって社会的に構成される。
その研究が無知論ないし無知学である。
スタンフォード大学のRobert N.Proctorがそのリーダー。
構成された「無知」の代表例としてProctorが挙げるのは,タバコの発がん性の(企業による)意図的隠蔽である。
Cancer Wars:how politics shapes what we know and don7t know about cancer(1995)
2005年には,スタンフォード大学で,Proctor夫妻により
“Agnotology: The Cultural Production of Ignorance”
と題する会議が開催されている。
認識論(epistemology)の新しい展開がいろいろ模索されている(認識成立に至る過程の分析(Hintikka),「知る」の実際の用法についての実証的研究など)。
そのなかでも,「知」や「無知」が社会的に構成され,重要な(プラス・マイナスの)機能を果たしているという点に注目する「無知論」(agnotology)は興味深い。
3.11以来、三猿の本場であるわが国で、いろいろな「知」や「無知」が社会的に構成され,見過ごせない重大な被害を人々にもたらしている。
内閣が議事録を作成しないとか、電力会社による「やらせメール」など、あきれはてた「構成」がわれわれの目前で行われている。
agnotology, agnoiologyという名前の由来
Its name derives from the Neoclassical Greek word ἄγνωσις, agnōsis, "not knowing" (confer Attic Greek ἄγνωτος "unknown"), and -λογία, -logia. More generally, the term also highlights the increasingly common condition where more knowledge of a subject leaves one more uncertain than before.
(under construction)
追記(2013/5/13)
日本哲学会のシンポジウムを聴いてきた(お茶大)。「認識論を見直す」がテーマだった。3.11後、これまでの自己完結的な認識論のままでよいのか?という問題提起だった。シンポで言及されることはなかったが、英米系認識論においては「無知論」が問題提起にこたえる展開だろう。この方向に認識論研究の中心がシフト「すべき」かどうかはわからない。しかし、無知論は認識論が社会性をまとう方向ではある。
3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠している。
かれらは"Three wise monkeys"として世界に知られ、「見ざる、聞かざる、言わざる」という叡智の3つの秘密を示している,とされる(Wikipedia)。
三猿をシンボルマークとする研究がある。
「無知論」(agnotology[by Robert N.Proctor], agnoiology, the science or
study of ignorance) である。
無知はしばしば特定の意図をもって社会的に構成される。
その研究が無知論ないし無知学である。
スタンフォード大学のRobert N.Proctorがそのリーダー。
構成された「無知」の代表例としてProctorが挙げるのは,タバコの発がん性の(企業による)意図的隠蔽である。
Cancer Wars:how politics shapes what we know and don7t know about cancer(1995)
2005年には,スタンフォード大学で,Proctor夫妻により
“Agnotology: The Cultural Production of Ignorance”
と題する会議が開催されている。
認識論(epistemology)の新しい展開がいろいろ模索されている(認識成立に至る過程の分析(Hintikka),「知る」の実際の用法についての実証的研究など)。
そのなかでも,「知」や「無知」が社会的に構成され,重要な(プラス・マイナスの)機能を果たしているという点に注目する「無知論」(agnotology)は興味深い。
3.11以来、三猿の本場であるわが国で、いろいろな「知」や「無知」が社会的に構成され,見過ごせない重大な被害を人々にもたらしている。
内閣が議事録を作成しないとか、電力会社による「やらせメール」など、あきれはてた「構成」がわれわれの目前で行われている。
agnotology, agnoiologyという名前の由来
Its name derives from the Neoclassical Greek word ἄγνωσις, agnōsis, "not knowing" (confer Attic Greek ἄγνωτος "unknown"), and -λογία, -logia. More generally, the term also highlights the increasingly common condition where more knowledge of a subject leaves one more uncertain than before.
(under construction)
追記(2013/5/13)
日本哲学会のシンポジウムを聴いてきた(お茶大)。「認識論を見直す」がテーマだった。3.11後、これまでの自己完結的な認識論のままでよいのか?という問題提起だった。シンポで言及されることはなかったが、英米系認識論においては「無知論」が問題提起にこたえる展開だろう。この方向に認識論研究の中心がシフト「すべき」かどうかはわからない。しかし、無知論は認識論が社会性をまとう方向ではある。
追記(2021/6/06)
「無知論は認識論が社会性をまとう方向ではある」と書いた。次は、いま一つの方向。
フェミニスト認識論(feminist epistemology):LinkFangから
イギリスのフェミニスト哲学者ミランダ・フリッカーは、社会的不正義や政治的不正義だけでなく、2種類の「認知的」不正義(epistemic injustices)も存在すると考え、それらは証言的不正義(testimonial injustice)と解釈学的不正義(hermeneutical injustice)であると主張した。証言的不正義とは、「話者の言葉に対して低い信頼性しか与えない」ように働く偏見のことである。フリッカーは例として、女性がジェンダーのせいでビジネスの会合の場面で信用を得られなかったという状況を挙げている。彼女は論理的に意見を述べたかもしれないが、周りの人は偏見のせいで彼女の議論が実際よりも不十分もしくは不誠実に思えてしまい、結果として実際よりも信用できないと判断する。フリッカーによれば、このようなケースでは、ありえたかもしれない結果(例えば、話者の昇進)における不正義だけでなく、証言的な不正義も存在している。これは「とりわけ、知識を持つ人物としての能力に関して誤解されるという点で不正義」である。
解釈学的不正義とは、「話者の知識についての主張が既存の概念枠組みの窪みに押し込まれることで、彼/彼女らの解釈する能力が制限を受け、それによって自らの経験についての語りを理解するもしくはそれに対して意見する能力が阻害されること」である。例えば、「セクシャルハラスメント」もしくは「ホモフォビア」という表現が一般には存在しなかったとき、これらの道徳的に誤った行為の被害を経験した人々は、そうした不正行為に反対する主張を行うための資源を欠いていた。
Miranda Fricker, Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing, New York: Oxford University Press. 2007.
by omg05
| 2021-06-06 06:09
| epistemology
|
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