純粋理性のアンチノミー |
それは,
世界の時間的・空間的無限性
物質の分割可能性
自由の存在
神の存在
のそれぞれについて,互いに両立しない2つの命題があり,それぞれの命題が矛盾を含む,という指摘である。いずれかが正しいはずなのに,両方とも正しくない,と結論されてしまう。
具体的にはアンチノミー(Antinomie)は次の4種類である。
1 世界は有限(時間的、空間的に)である/世界は無限である。
2 世界におけるどんな実体も単純な部分(それ以上分割できないもの)から出来ている/世界に単純なものなど存在しない(物質は無限分割可能である)。
3 世界には自由な原因が存在する/世界には自由は存在せず、世界における一切は自然法則に従って生起する。
4 世界の内か外に必然的な存在者(世界の起動者=神)がその原因として存在する/世界の内にも外にも必然的な存在者など存在しない。
「/」で区分けした左右2つの命題は互いに相手の否定となっていて,論理的にすべての可能性をつくしている(世界は有限であるか,有限でないかかのいずれかであり,第三の可能性はない)。
2つの可能性はどちらも矛盾に導くという議論はどのようなものか?
1の世界の時間的・空間的無限性について,上村芳郎氏が次のように要約しておられる(http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html)。
「世界は時間において始まりを持ち、空間からみても限界に囲まれている」というテーゼ(の前半)の証明は、次のようにして(背理法を用いて)行われる。「なぜなら、世界が時間において始まりを持たないと仮定せよ、そうすれば、与えられたどの時点までにも永遠が経過し、従って世界における諸事物の次々に継起する諸状態の無限の系列が流れ去ったことになる。しかしながら、系列の無限性というのは、継続的な総合によっては決して完結されえないという点にその本質がある。それゆえ、無限の流れ去った世界系列というのは不可能であり、よって、世界の始まりは世界が現に存在するための必然的な条件である。これが最初に証明されるべきことであった」(*)
(*)について上村氏は次のように解説しておられる。
「直訳しましたが、普通に読むと理解できないでしょう。「無限」という言葉の意味が、現代の用法とは違うからです。カント(あるいはカントが批判している形而上学者たち)は、「無限(unendlich)」という言葉を、文字通り、「終わり(end)のない」=「どんな限界(制約)も持たない」という意味で使っています。そういう意味では、ある時点で(その時点で終わっていますから)「無限の世界系列が流れ去った」というのは、矛盾しているわけです」
逆に、
「世界は始まりを持たず、空間においても限界を持たない。時間という点からみても、空間という点からみても、無限である」というアンチテーゼ(の前半)の証明も、次のようにして行われる。「なぜなら、世界が始まりを持つとしてみよ、そのときには、始まりというのは一つの現存在なのだから、それ以前に、物が存在していない時間が先立っていたことになるが、そうすれば、世界が存在していない時間が、つまり空虚な時間が先行していたことになる。しかしながら、空虚な時間においては何らかの物が発生するのは不可能である。……それゆえ、世界においては諸物の多くの系列が始まりうるが、世界そのものはいかなる始まりも持ちえない。それゆえ、世界は過去の時間という点からみて無限である」
従って、カントによれば、正反対の結論が、どちらも証明され、どちらも否定されることになる。言い換えれば、「世界は無限だ」と仮定したら、その逆の「世界は有限である」という命題が証明され、「世界は有限だ」と仮定したら、その逆の「世界は無限だ」という命題が証明されることになる。Aを仮定したら¬A、¬Aを仮定したらA、論理学では、これを矛盾と呼ぶ。
矛盾の原因は何か?
上村氏の解説をさらに拝借すると次になる。
「簡単に言ってしまえば、時間と空間というのは、それを介して対象が我々に与えられる感性の形式にすぎないのに、それを実在する対象の形式と思い誤ってしまう点に、こうした矛盾が生じる所以があるのである。つまり「無限」を「実無限」として理解したらダメだということである。こうして、カントは、自らの立場を、「超越論的観念論」と呼ぶことになる」(上村氏からの引用終了)
要約すれば,カントの議論は全体として次のかたちをしている。
AまたはnotA (排中律)
Aの場合:notAが導かれる これは矛盾
notAの場合: Aが導かれる これは矛盾
いずれにせよ矛盾
解釈:そもそも時空等を実在と考えるからこうなる。
各場合矛盾が証明されるというカントの議論をそのまま受け入れることはできないだろうが,興味深い議論ではある。私はこの議論を,ヒュームの懐疑論的論証(記事hume「一寸先は闇?」を参照)への一つのレスポンスとみている(この見方は私だけのものではない。あまりみないが,まあふつうの見方か?追記:ふつうの見方ではないようである。標準的には、ヒュームの議論の一部として含まれる因果批判へのレスポンスー因果批判がカントの独断の微睡を覚ませた、とされているようである)。
ヒュームの論証は,観察経験とその記憶を超えた経験的信念は正当化されるか否かを問題にしたものである。一つの信念は別の信念により正当化されなければならないと考えると,正当化系列を考えざるをえない。それについて2つの互いに排他的な可能性がある。
Aの場合:正当化系列はendless
not Aの場合: 正当化系列にはendあり
いずれの場合も当該信念は「正当化されない」,と結論するのがヒュームの論証の基本的構造である(Aの場合は明らかと考えたのだろうか,表面にはあらわれない)。
どの場合も「経験的信念は正当化されない」という常識離れした困った結論がえられるというのがヒュームである。カントでは,いずれの場合も「論理的矛盾」というさらに困った結論がえられるという話になっている。カントがヒュームを読んで「独断のまどろみから目覚めた」と述懐しているという話は有名である。カントは,正当化の正当化を求めるという「純粋理性の自由な行使」が袋小路,破壊的結論に導くことをヒュームから読み取ったと思う。同様の構造をもつ議論が哲学の伝統の中核にあることに気づき,それを4つのアンチノミーとして整理した。ヒュームの論証には多くのタイプのレスポンスがあるが,カントのアンチノミー論はその中でも最も豊かなレスポンス,クリエイテイブなレスポンスであると私は思う。
「カント自身が、アンチノミーという深刻な事態に気づいたのを直接のきっかけとして、『純粋理性批判』の執筆に思いいたった、と率直に告白している」(「カントはよみがえる/石川文康」http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/193/)とのことである。発想の道筋としては,ヒュームの懐疑論的論証ー4つのアンチノミーー超越論的観念論(純粋理性批判),という筋がストレートに通る。
より拡大された問題の枠組みの中でカントが提出した解決策ー自然が知性に従っているという超越論的観念論(カントの言う「コペルニクス的転回」ー哲学的天動説?)ーについてラッセルは『西洋哲学史』の中で,独断から目覚めたカントは自分用のハンモックをつくってまたぐっすり寝入ってしまった(この表現は不正確です),といった評価を下している。これについては同意。カントは,ヒュームが自分の独断論のまどろみを破ったと告白しながら,ヒュームについて,それは「哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論という別の浅瀬に座礁させた」と批評している。ラッセルの批評はこれへの皮肉だろう。
*関連する話題については次をご覧ください。
神山『懐疑と確実性』(春秋社、2015年)
追記(2016/7/13)
本書は現代認識論についての研究書です。研究書は新しい主張の提示、擁護を行うものですが、それとともに、(議論の準備のため)問題議論領域についての論点整理、概観を行います。この部分はしばしば資料的価値をもちます。
本書については、ゲチア問題(第1章)、共有知論(第11章)、ヒュームの懐疑論的論証のエイヤーによる要約(補遺1)、「ウィトゲンシュタインのパラドクス」の要約(補遺3)等が、それぞれの議論領域に関心をもつ方々の参考になるのではないかと思います。
共有知の分析は、ゲーム理論において行われた形式的分析であることもあり、哲学の文献ではほとんど言及されません。しかし、共有知(相互知)という現象そのものは哲学的興味を強くひくものであると思います。1976年のロバート・オーマンの短い論文からはじまったゲーム理論における共有知の分析は、現代認識論に対する大きな貢献であると私は考えています。
https://philia16.blogspot.com/2023/
実在論(プラトニズム)と懐疑論との格闘の歴史として西洋哲学史をスケッチする、というのがこの講義のコンセプトです。ご批判歓迎です。