白玉山塔(旅順) |
ロシア将兵の弔魂碑
乃木大将が「ロシア将兵の墓地が散在しているので できれば一箇所に集めて標識をつけて氏名などを明らかにして供養したい」と約束したと述べたが 1908年3月に旅順の案子山にロシア将兵を弔う「「礼拝堂」(高さ10m)を建立し その約束を果たした。
礼拝堂はロシア風に作られ 表面にはロシア語で「旅順攻防戦のロシア殉離烈士の遺骸ここに安眠す。1907年日本政府この碑を建つ」
と刻まれ 背面文には当時の関東都督である大島義昌大将の追悼文が刻まれていた。
その文面を要約して紹介すると
「ああ不幸にも戦場で戦場で一命をおとした者のために たとえ仇敵であってもこれを手厚く埋葬するのは当然である。これによって互いに忠義の道を尽くしたことをたたえあう仁愛の道を広めなければならない。ましてや昨年は仇敵であるといっても 既に有効を結んだ国同士ならばなおさらではないか。・・・戦没者を百代にわたって弔い その義烈を千年の後にもしめすため ここにこの碑を建つ」
と書かれている。
この「露国戦死者建碑除幕式」は 同年6月10日に挙行された。ロシア国民はみな大喜びした。ましてこれには日本から乃木大将が臨席するという。その歓喜ぶりはおして知るべしである。案内を受けたロシアは感激し ニコライ二世は自ら参列したいともらしたほどであった
結局 侍従武官長グルングロス中将(後の大将)と陸軍大将チチャコフを皇帝の名代として20名が参列することになるが ニコライ二世はこの弔魂碑の建設にかかわった者に対し 日露の国境をこえて勲章や記念品を授与したという。そして皇帝の勅命によってインノケンチ大僧正以下 僧侶十数名が派遣され ロシア正教方式で荘厳な儀式が行われたのであった。
礼拝堂を建立して数年後 ロシアの東清鉄道副総裁の一行がモスクワから旅順に立ち寄った。そのときの案内をしたのが上田**である。上田がロシア人一行に礼拝堂の碑文を翻訳して説明すると 一同は感極まり声をあげて泣き出したという。 そこには乃木大将が捧げた既にかれた榊(さかき)があった。上田は「日本の神道では神をまつるときには 榊をもちいる。乃木大将はロシア軍戦没者を神として崇敬したのである」と説明すると 一行深く感動し全員ひざまずいて榊に口づけしたという。
その日の晩餐会のとき ロシア側の代表者は立ち上がり
「せっかくの宴会のときに無礼であるのは分かっているが どうかそれを承知でわれわれの思いを知ってほしい」
と述べ 涙を流し ときに嗚咽しながら ロシア軍戦没者に対する日本の扱いに深い感激の辞を述べた。そして一同はあふれる涙をこらえながら
「ウラー(万歳)! ウラー(万歳)!! ウラー(万歳)!!!」
と熱い思いを吐き出すように叫んだ。そしてその声はいつまでもやむことはなかったのである。
この礼拝堂と表忠塔などでは毎年 招魂祭が挙行され ロシア革命によって霊魂が否定されるまで日露両国から参加者が集まるこころのかけ橋となっていた。
ロシア側の参列者は下火となったが それでも毎年数名のロシア人が参加した。彼らの靴は古く痛み 衣服はツギハギだらけ 帽子は破れていた。だがかれらは高額な花輪を日露の戦没者のために捧げつづけた。彼らはロシア革命によって本国を追われ 流浪をつづけているロシア人で かつてここで篭城した勇士たちであった。どんなに貧しくとも どんなに辛くとも彼らの魂はいつも「ここに」あったのである!
日本のつくった「表忠塔」「納骨堂」は現在「白玉山塔」と呼ばれ 今なお そのままの姿で建っている。
(『これだけは伝えたい武士道のこころ』p.133-136)
よい話。高雅な心は大切。