皆、一日たりとも渋沢平九郎を忘れたことがない |
アマゾンの帯には
<幕末屈指の洋学者でありながら、衝鋒隊を率いて各地で反乱を起こし、官軍を震撼させた古屋佐久左衛門の戦いを描く表題作、新選組局長・近藤勇の処刑とその後の遺体の行方にまつわる騒動を活写した「勇の首」―そのほか、赤報隊、天狗党、振武軍、撤兵隊、遊撃隊など、幕末維新を舞台に、義に殉じ、最後まで屈服しなかった男たちの凄絶な生き様を描く全八編>とある。
どれも興味深く読めた。
私にとってとくに印象深く,勉強になったのは「屏風の陰」と「血痕」。
渋沢栄一の兄(弟)分にあたる人々の物語。
深谷の豪農の子として生まれた栄一があれだけのことを為しえたのはなぜかが気になっていたが,この短編を読んで事情がわかった。
彼はすぐれた従兄弟に恵まれていた。
尾高新五郎,長七郎、渋沢成一郎(喜作),渋沢平九郎である。
これだけ人々がまわりにいて育てられ,生き様を見せられたら,「算盤」だけの人物になるわけがない。
(写真は飯能戦争時越生黒山三滝で自刃した渋沢平九郎。凛々しい。「人と成り長身白皙才文武を兼ね志忠孝に存す」(招魂碑)という若者の死は多くの人に哀惜されている。飯能や彼が自刃した場所は私の田舎近く。これまで知らなかったのは不覚)
http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/heikurou.html
「勇の首」にもあらわれているが,非業の死を遂げた身内の遺体を草の根わけても探し,ともらおうとする心はわれわれに共通した心根。すぐれた心根だと思う。ときに身内でなくてもそうする。反逆者の立場であった平九郎の遺体を手厚く葬った越生の人々を誇りに思う。さすが,山吹伝説の故地である。
*太田道灌と山吹伝説
太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。
その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか」といいました。
驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。
(http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/yamabukidensetu.html)
追記
叔母の1周忌が越生であった。
最勝寺での法要。最勝寺は1193年源頼朝が命じてつくらせたという名刹。
高台にあり、越生梅林を含む越生の里を一望できる。
素敵な里。春は梅や桃で見事とか。さもあらん。
叔父・叔母はよい所で眠っている。
(越生は叔父のふるさと)
供養の食事は、山吹伝説の故地の隣り。
供養が終わった後、従兄が叔母たちと一緒のドライブに誘ってくれた。
私が和尚さんと平九郎の話をしているのを聞いていたのか、
顔振峠を回ってくれた。
標高500mとのことだが、かなり大変な峠。
平九郎はここから黒山三滝に降りた。
吾野方面に下る途中、急斜面の見事な村落に出会った。
カメラを持参していなかったのが残念。
温泉もあるとのこと。
田舎から遠くない、また出かけよう。
追記
小さな滝だが、アプローチも整備されていてかなり立派。一見の価値あり。
入り口近くの「黒山三滝鉱泉館」が営業停止は残念。
滝そばの小川で4人のカメラマンが流れに向かって何やら写真撮影。
「何を撮っているのですか」とたずねたところ「ミソサザイ」。
瞬時に藤沢周平の名作「鷦鷯」を思い出した。
一緒になってカメラを向けたものの、小さくかつすばやく、撮ることはできなかった。
川面の流木の上にとまって、啼いてくれればいいのだが、とは老カメラマンのぼやき。
意外なところで鷦鷯と接触(写真はネットから拝借)。
この鷦鷯は平九郎の化身か。
追記(2/29/2016)
梅の季節、ぽかぽか陽気に誘われて妻とともに越生再訪。
みなさん同じことを考えるのか、梅林に向かう一本道は大渋滞。
これはかなわぬと考え、車をある場所に置き、徒歩で梅林をめざす。
40分程度歩いて到着。
紅梅が満開。
梅林中ほどで、お猿さんと一緒の太鼓パフォーマンスが繰り広げられ、人を集めていた。
今回気づいたのは、太田道灌の父資清(道真)の隠居所「自得軒」がこの地にあり、ときおり道灌が訪ねてきていたということ。
(当地の案内によると、道灌は自得軒近くの「山枝庵」で生まれた。)
たまたま越生に来て山吹伝説の故事にあったということではなかったようだ。
越生は、文武両道の名将道真・道灌父子ゆかりの地であることになる。
自得軒は最勝時近くにあったとのこと。
当時たしかに「梅の里」にふさわしい風情だったろう。
文化年間(1804~18)に刊行された「武蔵野話」(むさしやわ)は、このあたりの情景を「川の両岸も山麓も人家も一面に白梅花にして香風鼻を衝き、実に仙家にいたりし心地せり。建康寺の境より望めばその景色たとえんかたなし。かかる勝地をしらざる遺恨限りなし」と絶賛している。
文明十八年(1485)の六月、道灌は京から招いた禅僧万里集久とともに自得軒に父を訪れて、数日間滞在、歌会を催した。そのおり、万里集久が詠んだのが次の絶句。
縦有千声尚合稀
況今一度隔枝飛
誰知残夏似初夏
細雨山中聴未帰
たとえ千声あるともなお合うこと稀なり いわんや今一度枝を隔てて飛ぶおや
誰か知らん残夏の初夏に似たるを 細雨山中に聴きていまだ帰らず(あるいは、未帰の声を聴く)
(万里集久「梅花無尽蔵」)
未帰とは不如帰すなわち郭公のこと。意味を完全にとれるわけではないが、私は気に入った。静かな山中で細雨が降っている。郭公の声と思うのですが・・
追記(4/22/2016)
先日家の近くを散歩していて、郭公の声を聞いた。「未帰」ときこえた。
次は道灌の秀歌。
わが庵は、松原つゞき海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る
うつし植ゑて 共に老木の桜花 なれも昔の春や恋しき
露おかぬかたもありけり ゆふ立の 空よりひろき 武蔵野の原
追記(2019/2/15)