Adventure of Ideas |
これまでの私の解答は次だった。
狭義:「存在とは何か」、「知識とは何か」、「善(正義、幸福)とは何か」等の一般的問題を問う知的活動
広義:学問一般
日常的定義:個人や組織が容易なことでは放棄しない基本的信念の組
日常的定義はこれでよいと思っているのだが、このところ、狭義での定義を、上のものよりやや広げて、Adventure of Ideas(観念の冒険、思想の冒険)に変更するのがよい、と考えはじめている。
”Adventures of Ideas”はもちろん、1933年に出版されたホワイトヘッドの著作名。
Adventure of Ideasは哲学、西洋哲学に限らないのではないの?科学も宗教も芸術もAdventure of Ideasではないの?と言われそうである。
そうかもしれない。いや、そうでしょう。
場合によったら、哲学の看板は放棄してもかまわない。Adventure of Ideasでいきたい、というくらいの心もちである。
philosophyの敷衍定義としてAdventure of Ideasを使いたい。
一般の方や学生諸君にはAdventure of Ideasの方がわかりやすいのではないか。
Adventureだからinterestingまたはスリリングである。
Adventureだから、目的地にたどり着けないことも、途中で雪崩に巻き込まれることも、山賊に襲われることもありうる。
ナマケ者のAdventureなら、ぶらぶら山歩き風になることもある。
Adventures of Ideasを学ぶ理由は何だろう。
一つは楽しみ。
知的冒険には独自の楽しみがある。列車や飛行機、タイムマシンに乗ることなしに、古今東西の知的宇宙のさまざまな「景色」を楽しめる。
いま一つは期待。
われわれは不透明な世界に生きている。人間として同じ状況に置かれた先人の、あるいは同時代人のさまざまなAdventures of Ideasを学ぶことにより、自分の立ち位置、歩むべき方向、道をより明確に理解できるようになるかもしれない。
宮沢賢治は「銀河系を胸に抱いて生きる」ことを岩手の土に生きる若い農民たちにすすめた。
知的冒険することにより、賢治のような、大きな、あるいは、偏りのない人間、デイオゲネスのような「世界の市民」(コスモポリタン)になれるかもしれない。
地盤、看板その他があり、プラトンが望んだような哲人統治者は望むべくもないが、要所要所のリーダーにはせめて求道の心をもってもらいたい。「古人言わく、径寸十枚是れ国宝に非ず、 一隅を照らす此れ即ち国宝なり」(伝教大師)。哲学教育とは国宝教育である、というのが私の理解である。