ウィトゲンシュタイン流の応答 |
(1) 私に手があることを私は知っている。
(2) もし私に手があれば私は(手足のない)BIVではない,ことを私は知っている。
ところで
(3) もし私がある事柄 a を知っていて,しかも,a が別の事柄 b を含意することを知っているならば,私は b も知っている(閉包原理)。
よって
(4) 私はBIVではないことを私は知っている。
ところで
(5) 私はBIVではないことを私は知らない(問題の設定からBIVは私とまったく同じ経験をもつ,経験では両者を識別できない)。
よって
(6) 私に手があることを私は知らない。
p = 「私に手がある」, q = 「私はBIVではない」,K =「私は...を知っている」と置く。すると上の議論は次のように記号化される。
(1) Kp
(2) K(p→q)
ところで
(3) (x)(y)[{Kx & K(x→y)} →Ky] (閉包原理)
だから
(4) Kq
しかし
(5) ¬ Kq
よって
(6) ¬ Kp
容易に見てとれるように,これは次のようにも表現される。
(7) ¬ Kq
(8) ¬ Kq → ¬ Kp ((2) と (3)のもと真)
よって
(9) ¬ Kp
もとに戻せば,
(10) 私はBIVではないことを私は知らない。
(11) もし私がBIVではないことを私は知らないのならば, 私に手があることを私は知らない。
よって
(12) 私に手があることを私は知らない。
ここでは,私はBIVではないことを知らないということから,私には手があることを知らないことが導かれている。そこで,この形の議論は「無知からの論証」 (argument from ignorance)と呼ばれる。
手があることを私は知っているし,およそ懐疑論者の議論の前提がこの事実を上回る確実性をもつことなどありえない,として論証(とりわけ,「私は水槽の中の脳ではないことを知らない」という最初の前提(7))を否定するのが,「ムーア流の応答」(Moorean response)―ムーアならば行うであろうと思われる解答―である。
たしかに,私に手があることは自明な命題であり,それを私は知っている,そしてそのことは,私がBIVではないことを私は知らないことと矛盾する。首尾一貫しようとするならば,私がBIVではないことを私は知っていると結論しなければならない。つまり,(10)は偽であることになる。
「ウィトゲンシュタイン流の応答」ー「確実性について」におけるウィトゲンシュタインならば行うであろう解答を試みにこう呼んでみるーはもっとラジカルだ。(11)にあらわれる「私に手があることを私は知らない」はそもそも命題ではない。したがって,議論全体は「論証」でさえない。それは何も述べていない。この応答は,「私に手がある」かどうかが問題になる文脈を認めない。この点はムーア流の応答も同じだろう。
(under construction)