茨城三都物語 |
少し前武田信松尼周辺の話をチェックしていて印象に残ったのが、攻めよせる織田の大軍を前に家臣たちが次々に離脱していくなかで最後まで勝頼に従い、武田家に殉じた「片手千人斬り」土屋惣藏昌恒の物語。(彼についてはたとえばhttp://senjp.com/thuchi/を参照)
亀城公園をもつ土浦は土屋氏の城下町と気づいて、後で確認してみた。
初代土浦藩主はやはり土屋惣藏昌恒の孫数直。
数直の父の忠直は昌恒の長子。武田家滅亡の後、母に連れられて駿河国に逃れていたところを、惣藏を忠臣として高く評価していた家康に見いだされて、江戸城で保護され、秀忠の小姓に取り立てられた。
将軍秀忠の側近として忠直は上総久留里藩の藩主となったが、31才で亡くなっている。
初代土浦藩主数直はこの忠直の次男。幕府で若年寄、老中として重きをなし、4代将軍家綱の治世、保科正之や他の老中とともに武断政治から文治政治への転換をすすめた。
彼の後も土浦藩土屋氏は老中を輩出している。
土浦土屋氏は、徳川家にとっては敵の武田の家臣の血筋であったが、幕府において譜代の扱いを受けた稀な家系のひとつであり、常陸土浦藩は、武田の忠臣土屋惣藏昌恒を先祖とする名誉の藩ということになる。
土浦は風光明媚な霞ケ浦をもつ。明治以後川の埋め立て等により町の風情が失われたという老紳士の嘆きを聞いて、思いついたことがある。
土浦は「土屋氏」という名誉の家系をもつ、風光明媚な霞ケ浦、上野から1時間という好条件もある。茨城県には、水戸黄門で名高い水戸、大洗海岸、それに笠間稲荷、笠間焼、親鸞の西念寺、植芝盛平の合気神社等で知られる「常陸の小京都」笠間がある。それぞれ、風光、歴史文化的資源に恵まれている。土浦と笠間、水戸で「茨城三都物語」を構成できる。
少し前、茨城県が「都道府県魅力度ランキング」で4年連続最下位、というニュースが流れた。
住民にとっては何の問題もない話ではあるものの、県の政策担当者はそうも言っていられないであろう。
「茨城三都物語」プロジェクトを旗揚げし、予算を大胆に投下し、整備(とくに霞ケ浦周辺)、北関東の雄として強力に(強引に?)常陸の国の魅力をアッピールする、というのはいかがであろうか。
(工事中)
追記
「忠臣蔵」に登場する吉良家の隣家の旗本土屋主税は、忠直の子孫。次は彼の物語(http://wheatbaku.exblog.jp/20734524/)。
「赤穂義士仇討の時吉良上野介宅へ押よせてきた時まず、隣屋敷の土屋主税邸へ吉田忠左衛門方より従者を差越させて、『浅野内匠頭家来が、主人の敵である吉良上野介殿御宅へ只今押し込みました。騒動が及びかもしれません。武士は相い互の義ですので、お構いしませんように』と申し入れました。
土屋主税は、それを聞いて、心得た旨の返答をし、家来を透かし塀際へ出し、提灯をひしと差し上せ、その下に射手を揃え、もし塀などのり越えてくる者がいれば、射る落とすように申しつけ、自身は床机に腰をかけ、事が済むまで座っていました」
土屋惣藏昌恒の子孫なら「かくあるべし」という堂々たる態度。大したものである。
(http://blog.goo.ne.jp/sztimes/c/61e80dbb7b1b89cfea9e6dfa0cbb4e42から拝借)
江戸時代の土浦城。たしかに、保存されていれば、という嘆きもわかる。
(https://matome.naver.jp/odai/2140306844918429401/2140307164721344503)
霞ケ浦。国内第二の湖面積。坂東随一の大湖。