メノン |
「プラトン哲学の最良の入門書」として評価が高いとのこと(Wikipedia「メノン」)。コンパクトでありがたいのだが、理解しやすいとはいえないと思う。がんばって読まないといけない。30年以上前「国家」を読んだ。これは大部の著作だったが、すいすい読めた記憶がある。メノンは、ゆっくり、できたらセミナー等で着実に読みたい。
渡辺さんの解説を読みながら、ソクラテスの主張をつかむことを目標に一読した。通読ではなく、宝の山のなかの(私にとっての)「宝石」を見つけるための読書。金鉱をさがす山師のような、というところか。
今回「見つけた」のは、第5章「メノンとの対話の結論」。以前読んだときは、想起説のところで満足して、その先はロクに読んでいなかった。
ソクラテス:徳(アレテ―)の教師はどこにもいない、弟子もいない。すると、徳は教えられない(これにメノン同意)。
「そうだとすれば、わたしは不思議に思わざるをえません、ソクラテス。優れた人々も、じつはまったくいないのではないでしょうか、あるいは、優れた人があらわれ出てくるとしたら、それはどのようにしてなのでしょうか」(メノン)。
ソクラテス:徳が備わる人々(優れた人々)にあっては、覚醒した知性など抜きにして、神的な運命のようなもの(神懸り)によって徳が備わっている。
かれらは、「正しい考え」(真な信念)に導かれる。たまたま正しくあるにすぎないのだが、正しくある限り、行為を正しく導く、つまり成功を収めることがありうる。実生活上の行為に関する限り、正しい考えは知識(エピステーメー)にくらべてなんら劣っていないし、有益性について不足はなにもない。
ただ、正しい考えと知識ははっきり異なる。前者は安定性に欠ける。安定性がある知識は正しい考えより価値が高い。
知識が正しい考えと異なるのは、「原因(根拠、理由、説明)の推論」により「縛られている」という点による。想起とは「縛られている」こと。
「これはおおよそそうではないかと推測しているにすぎない。ただ、正しい考えと知識は互いに異質な何かであるということの点において、わたしは、たんに推測をしているだけではないつもりだ。わたしが知っていることはほんのわずかでしかないけれど、自分がこれなら知っていると主張できるものが何かあるとすれば、わたしはこの点もまた自分が知っているもの中に含めたいと思っている」(ソクラテス)
これから、「徳は、それ自体として、いったい何であるか?」という最初の問題の大事さを述べて、対話終了となる。なぜこの結論になるのかはすぐにはわからない。徳が知識(エピステーメ―)でも知(フロネーシス)でもないのなら、この問題の解答はなさそうではないか(渡辺さん「解説」が元気の出る解釈を述べている。ご覧ください)。
メノンは師ゴルギアスや国の有力政治家たちを尊敬している。つまり、かれらが徳が備わる人々(優れた人々)であると考えている。この信念に譲って、かれらに徳が備わっていることをソクラテスは認める。しかし、単に幸運に恵まれてそうなっていること(「神的な運命のようなもの(神懸り)」によりそうなっていること)を指摘する。「運命による」と言われると、メノンとしては途方に暮れるわけである。相手を途方に暮れさせるのはソクラテスの定石。後は自分で考えなさい、と言っているのだろう。徳は教師(ゴルギアス!)から教えられて身につけることのできるものではない。すると、自分で身につけるしかない。この際、当然のことながら、何を身につけるかが最初の問題である。ここで間違えると、ヘンなものを身につけてしまうかもしれない。「徳は、それ自体として、いったい何であるか?」という問題が大事、ということになる。
確認点
1.<知識が正しい考えと異なるのは、「原因(根拠、理由、説明)の推論」により「縛られている」という点による>が「メノン」におけるソクラテスの主張。<「原因(根拠、理由、説明)の推論」により縛られている>の、あの手この手での定式化が現代知識論者が行ってきたこと。
2.無知の知:<自分がほとんど知らないことの自覚>というのがその意味。「わたしが知っていることはほんのわずかでしかないけれど、自分がこれなら知っていると主張できるものが何かあるとすれば、わたしはこの点もまた自分が知っているもの中に含めたいと思っている」(ソクラテス)
3.成功した人々(政治家等)はいわばまぐれ当たりの「正しい信念」で成功している。信念がたまたま正しかったので成功を収めただけ。「神懸り」では心配。長期にわたる成功がえられる保証は何もない。ソクラテスは、正しい信念の効能を正しく指摘している(それでは不十分なのだがということを指摘する文脈においてではあるが)。
4.「メノン」はプラトン初期末の対話篇。「ソクラテスの弁明」等の初期対話篇と、「テアイテトス」(プラトンが独自の哲学を展開し始めた中期最初の作品)、「パイドン」(ここでイデア説が登場)、「国家」等の中期対話篇をつなぐところに位置する。
5.プロディコスがソクラテスの教師(の一人)(「プロディコスはわたしを十分に教育しなかったのだ」);プロディコスはソフィストの一人。ことばの正しい使用法を唱えた。
6.当時、ソフィストや「弁論家」たちが徳(アレテ―)を教えることできると称し、実際ギリシャ諸都市で教えていた(メノンも教えを受けた一人。ゴルギアスが彼の教師)。本当に徳は教えることができるものなのかが本対話篇の主題。
7.徳は知識(エピステーメ―)でも知(フロネーシス)でもないから、徳は教えられない。徳は自ら身につけるほかない。それでは、神頼み(幸運にめぐまれる)でないどのようなやり方があるか?自分で考えるべし。その際、そもそも徳は何であるかから考えていくのが大事。