2018年 01月 28日
孟子 |
伊東 潤「江戸を救った男」を読んだとき中江藤樹に感心、注文取り寄せてあったのがなぜか金谷 治「孟子」(岩波新書)。それを読みはじめる。これは名著。思わず著者について調べる。東北大学の人とのこと。「河村瑞賢」の著者吉田良一氏も同じ大学の人だったと思う。私などが言うと失礼になりそうだが、同系の碩学という印象をもった。(2018/1/14)
「孟子」(岩波新書)読了。よくよく孟子に通じた人の著作。好感をもって読むとともに勉強になった。儒学の基本文献を朱子が『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』の4つにまとめ四書と呼んだが、『孟子』は本書により読んだ気分である。孟母三遷、孟母断機の教えは名高い。
追記
島田虔次「朱子学と陽明学」 (岩波新書、1967年刊)を一読。陽明学に至る過程を詳細にえがいた本。ふむたしかに「中国哲学」と呼んでよい内容などと感心しながら読んだのだが、かなり苦しい読書。第三章「王陽明の登場」でぱっと楽しくなった感じ。机の上に置いておいて参照すべき本。陽明には好感をもった。興味深い人物だ。
一読の後拾い読みしている。「一読」の際飛ばした”反逆者”李卓吾も興味深い。中国思想の一休か。童心説にはかなり納得。うっすらと考えていたことをはっきりと述べてくれている。
追記(2017/12/25)
小島 毅「朱子学と陽明学」(ちくま学芸文庫)を読んでいる。2004年放送大学テキストの文庫版、2013年刊。島田氏のものと同名の本。放送用テキストであることもあって大変読みやすい。この分野によく通じた人による平明な筆の運び。感心しながら読んだ。さしあたり新ー儒学の簡単な講義用スライドを作りたいと考えて読んでいるのだが、この目的にとってはありがたい。感謝。
朱子学において西洋哲学風存在論が整備されて、「中国哲学」という言い方に違和感を感じさせない威容を中国思想はもつに至ったという感想をもった。ただ、存在論としてはさほど新味はないように思う。やはり、(私にとっても)興味をひくのは道徳哲学の部分。小島氏の表現を用いれば、「成り上がりの見栄」(朱子)より「放蕩息子の道楽」(陽明学)に魅力がある。朱子流の「格物致知」(個々の物事についてその理を窮め尽くした上で、そうしてえた識見をおし及ぼす)では日が暮れてしまう。また、物事(外的事象)の理を窮め尽くすことが心の理の自覚につながるという話にはジャンプがある。まわりくどい道をたどらずとも、心にある良知は直接キャッチされる、良知の働きにより物事を正す(格物:「大人は君心を格(ただ)す」(孟子))ことが大事である。各人が日々民衆と交わり格物すること自身が自己修養であり(事上磨錬)、平天下の実現なのである(致良知説)。このことに、王陽明は、左遷されて貴州の山間地帯にいた37才の時に気づいたとされる(龍場の大悟)。聖人は(「学んで至るべし」というものではなく)万人に共通する人間本来の姿である(満街聖人まんがいせいじん)。
事上磨錬、満街聖人はロマンチック。多くの人々が陽明学に鼓舞されたこともわかる。
小島 毅「朱子学と陽明学」読了。陽明以降、現代新儒家に至る歴史の記述を興味をもって読んだ。現代新儒家が孟子・陸・王の「心性の学」を正統なものと見ていること、著者が現代社会において大手を振って主張できるのは陽明学のほうであると考えていることなど興味深く、勉強になる。
中国は、儒教社会主義に向かうかもしれない(2010.9.16)
2008年精華大学で政治哲学を講義するダニエル・A・ベル氏が出した著書「中国の新たな儒教」の中で、中国の政治体制が今後マルキシズムを捨て、儒教を土台にした体制に向かうという衝撃的な見通しを示した。中国共産党指導者と知識人は、既に「儒教社会主義」という言葉を使い始めているという。中国が驚異的な経済発展をもとに国際社会に示す普遍的な価値観は儒教をおいて他にないということである。
(http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-aa4f.html)
少し前「儒教社会主義」という中国政府の新看板を見て驚いたが、本気のような気がする。徐々に民主主義に移行すれば、孟子・陸・王も納得するだろう。
追記(2017.12.27)
「王陽明」のスライドを作っていて、次の文に出会った。「率直にいって私は、経営の「社会的責任」について論じた歴史人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界の誰よりも早く、経営の本質は「責任」にほかならないということを見抜いていたのである」(P.ドラッカー『マネジメント』)
自著について、ドラッカーは「本書全巻を貫くものは、結局、渋沢栄一がかつて喝破した「経営の本質は“責任”にほかならない」という主題につきるといえる」(『マネジメント』ダイヤモンド社版日本序文)とまで述べていて、
Confucian ethics underlie much of Drucker's writing.(Edward J. Romar[2004] Managerial Harmony: The Confucian Ethics of Peter F.Drucker, Journal of Business Ethics)
という指摘があるそうである。これは、儒学(とりわけ陽明学)に現代的意味があることの例証の一つになりそうだ。
追記(2017.12.27)
One ofthe major trends in contemporary Chinese philosophy is “New Confucianism.” New Confucianism is a movement to adapt Confucianismto modern thought, showing how it is consistent with democracy and modernscience. New Confucianism is distinct from what we in the West call Neo–Confucianism, but it adopts many Neo–Confucian concepts, in particularthe view that humans share a trans–personal nature which is constituted by theuniversal Pattern. Many New Confucians agree with Mou Zongsan (1909–1995) that Wang had a deeper and more orthodoxunderstanding of Confucianism than did Zhu Xi.
Wang'sphilosophy is of considerable intrinsic interest, because of the ingenuity ofhis arguments, the systematicity of his views, and the precision of his textualexegesis. Beyond that, Wang's work has the potential to inform contemporaryethics. Although his particular metaphysics may not be appealing, many of hisideas can be naturalized. It may be hard to believe that everything is unifiedby a shared, underlying Pattern, but it does seem plausible that we are deeply dependent upon one another andupon our natural environment for our survival and our identities. I am ahusband, a father, a teacher, and a researcher, but only because I have a wife,children, students, and colleagues.In some sense, we do form “one body” with others, and Wang provides provocativeideas about how we should respond to this insight. In addition, Wang'sfundamental criticism of Zhu Xi's approach, that it produces pedants who only study and talk about ethics,rather than people who strive to actually beethical, has considerable contemporary relevance,particularly given the empirical evidence that our current practices of ethicaleducation have little positive effect on ethical behavior. (https://plato.stanford.edu/entries/wang-yangming/)
儒学の術語を英語ではどのように訳しているのか確認したいと考え、手近なテキストをながめてみた。わかりやすく、参考になる。万葉集を英雄さんの英訳で読んだような効果。上に転載した部分は結論部、現代中国の “New Confucianism”の王陽明に対する見解、陽明学の現在的意義について説得力を感じる意見が述べられている。単なる「論語読み」を生んでも仕方ない、大事なのは実際にbeethicalであろうと努める人を生むことだ、は正しいと思う。この点で現代の倫理教育がほとんど機能していないというのも洋を問わず現実だろう。
追記(2018/1/20)
芝豪「小説王陽明(上)(下)」(明徳出版社、平成18年刊)を読んでいる。<孟子の言に「是非の心は知なり。是非の心はみなこれあり」とある。これが良知である。この良知のないものがいずこにあろうか。ただ良知を致すことだできないだけなのだ」(「陸元静に与う」)>
良知とは是非を判定する心の力。すべての人がこれをもつ。もたないようにみえるのは、私欲に曇らされて良知を実行できないだけのことだ。少し後のデカルトのbon sens(良識)に近い。良知ははっきり価値判断能力を含む。敵幾千万ありともわれ良知でゆく、というのが陽明。良知だけでいろいろな物事をうまく処理できるか、という疑問はもっとも。陽明は、処理できる!と断言する。突撃!という声かけに近く、人を勇気づける。書斎にとじこもりきりでいたり、王宮で陰謀をめぐらすよりずっと好ましいのは間違いはない。良知説を支持するわけではないが、良知や赤子の心に対する着目と擁護には同意。心ひそかに思っていたことを陽明がはっきり述べてくれているという感想をもった。私としては、陽明が朱子学改善のため打ち出した思想よりむしろ、彼の人物、生き様、事上で成し遂げたことども(格物)に強い魅力を感じる。
追記(1/21)
良知はすべての者の心に中に完全なかたちである。それを実行すればよい。実行すればそれが正義である。ただ、良知を実行しようとするとき(そのような意志をもつとき)、私欲により良知が曇らされていて正義の実行とならないことがある。多くの者の場合、そのようになる。曇りをとるために物の理を窮めたり、経典を読んだりすることは必ずしも必要ない。日々の活動のなかで、曇りをとる功夫を行なえば(事上磨錬)十分である。最もいけないのは、経典を読みそれで終わりとする態度である。実行を伴わない知は知ではない。
陽明思想のコアな部分を書き出してみれば、大体このようなことか。一切の曇りなき良知の保持者を「聖人Z」と呼ぶとすれば、行為Aは正しい iff 聖人ZはAを是認する、ということになろうか。陽明は、街をゆく人すべて聖人(満街聖人)と言っている。この聖人は聖人Zではあるまい。曇りをとる功夫の進境著しい人とそうでない人はいよう。良知の保持者のことならばすべての人がそれであるわけだから、矛盾はない。実践、修行を重んじるという点で禅と近い。床の間に飾ってある儒学ではなく、世に生き、暮らしの励みとなる儒学復活をめざしたという点で陽明が多くの人々にインパクトを与えたのは了解できる。
追記(1/23)
致良知(勉強)
良知
百科事典マイペディアの解説
先天的に人の心にそなわった理性知。孟子の創唱。明代の王陽明は〈大学〉の致知を致良知と解し,人欲を除去して良知の力を現す修養法を説いた。
致良知
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
中国,明の思想家,王陽明の中心学説。『大学』の「致知」の「知」を『孟子』尽心上編の「良知」で解釈した説。陽明 49歳のとき,教導のスローガンとして掲げられた。これにより,47歳の年に成った『大学古本序』も改定している。
この説の掲示以前,種々の論 (知行合一,静坐,格物) が掲げられたが,この「致良知」説が最善のものとされ,陽明晩年の総決算がこの句にこめられているという。
自己の固有する,是非善悪を直覚的に弁明する心の作用が「良知」であり,その良知に従って事物に対処し,かつその対処を通じて良知を顕現させるのが「致良知」の意味であると説く。
デジタル大辞泉
良知を最大限に発揮させること。良知はもと孟子の唱えたもので、王陽明はこれを陽明学の根本的な指針とした。
日本大百科全書(ニッポニカ)
王陽明(守仁)晩年の思想を表す用語。良知を推し究め発現すること。
古来『大学』の格物致知についての解釈はさまざまあった。王陽明は「格」を「正す」と読み、格物とは心の不正を正すことだとした。致知については、「知」を「良知」と解釈して、心に本来具有している良知を拡充、発揮することだと考えた。
朱子(朱熹)は「知」を知識と解して、致知とは知識を推し究めすべてを知り尽くすことだとする主知主義の立場をとった。それに対して、王陽明は、朱子の態度を知識の量的拡大だけを求めるものとして批判し、人間の心の生命力あふれる働きを重視したのである。
『孟子』にみえる良知は、王陽明によって、道徳的行為の基準であり、善悪を知って不善を退けようとする道徳意識である、とみなされた。したがってそこでは知識を外に求める必要はなく、さらに晩年には心の不正を正すことよりも、良知が本来もっている姿を自覚し、それを発現することがもっとも重要とされていったのである。[杉山寛行]
陽明思想の変遷がわかる解説群
1.良知は孟子の創唱(『孟子』尽心上編「人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮らずして知る所の者は、其の良知なり」)
2.良知に従って事物に対処し,かつその対処を通じて良知を顕現させるのが致良知
3.人欲を除去して良知の力を現す修養法を説く
4.致良知:陽明 49歳のとき,教導のスローガンとして掲げられた
5.致良知説:陽明晩年の総決算(それ以前、知行合一,静坐,格物)
6.良知が本来もっている姿を自覚し、それを発現することがもっとも重要
7.朱子の態度を知識の量的拡大だけを求めるものとして批判、人間の心の生命力あふれる働きを重視
<理想的観察者(=行為者@陽明)においていろいろな事柄について意見の不一致は消える>という考えが述べられている。道徳的実在論に分類しようとすればできそうだが、釈迦同様、相手に応じて自在に教えを説いた陽明だ、「良知を致すことに努めなさい」と勧めていると解釈したほうが安全だろう。学ぶこと、修養を積むことにより誰でもよりすぐれた人間になることができる、よく励みなさい、というのが孔孟以来の儒学の基本的精神のようだ。
「孟子」(岩波新書)読了。よくよく孟子に通じた人の著作。好感をもって読むとともに勉強になった。儒学の基本文献を朱子が『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』の4つにまとめ四書と呼んだが、『孟子』は本書により読んだ気分である。孟母三遷、孟母断機の教えは名高い。
追記
島田虔次「朱子学と陽明学」 (岩波新書、1967年刊)を一読。陽明学に至る過程を詳細にえがいた本。ふむたしかに「中国哲学」と呼んでよい内容などと感心しながら読んだのだが、かなり苦しい読書。第三章「王陽明の登場」でぱっと楽しくなった感じ。机の上に置いておいて参照すべき本。陽明には好感をもった。興味深い人物だ。
一読の後拾い読みしている。「一読」の際飛ばした”反逆者”李卓吾も興味深い。中国思想の一休か。童心説にはかなり納得。うっすらと考えていたことをはっきりと述べてくれている。
追記(2017/12/25)
小島 毅「朱子学と陽明学」(ちくま学芸文庫)を読んでいる。2004年放送大学テキストの文庫版、2013年刊。島田氏のものと同名の本。放送用テキストであることもあって大変読みやすい。この分野によく通じた人による平明な筆の運び。感心しながら読んだ。さしあたり新ー儒学の簡単な講義用スライドを作りたいと考えて読んでいるのだが、この目的にとってはありがたい。感謝。
朱子学において西洋哲学風存在論が整備されて、「中国哲学」という言い方に違和感を感じさせない威容を中国思想はもつに至ったという感想をもった。ただ、存在論としてはさほど新味はないように思う。やはり、(私にとっても)興味をひくのは道徳哲学の部分。小島氏の表現を用いれば、「成り上がりの見栄」(朱子)より「放蕩息子の道楽」(陽明学)に魅力がある。朱子流の「格物致知」(個々の物事についてその理を窮め尽くした上で、そうしてえた識見をおし及ぼす)では日が暮れてしまう。また、物事(外的事象)の理を窮め尽くすことが心の理の自覚につながるという話にはジャンプがある。まわりくどい道をたどらずとも、心にある良知は直接キャッチされる、良知の働きにより物事を正す(格物:「大人は君心を格(ただ)す」(孟子))ことが大事である。各人が日々民衆と交わり格物すること自身が自己修養であり(事上磨錬)、平天下の実現なのである(致良知説)。このことに、王陽明は、左遷されて貴州の山間地帯にいた37才の時に気づいたとされる(龍場の大悟)。聖人は(「学んで至るべし」というものではなく)万人に共通する人間本来の姿である(満街聖人まんがいせいじん)。
事上磨錬、満街聖人はロマンチック。多くの人々が陽明学に鼓舞されたこともわかる。
小島 毅「朱子学と陽明学」読了。陽明以降、現代新儒家に至る歴史の記述を興味をもって読んだ。現代新儒家が孟子・陸・王の「心性の学」を正統なものと見ていること、著者が現代社会において大手を振って主張できるのは陽明学のほうであると考えていることなど興味深く、勉強になる。
中国は、儒教社会主義に向かうかもしれない(2010.9.16)
2008年精華大学で政治哲学を講義するダニエル・A・ベル氏が出した著書「中国の新たな儒教」の中で、中国の政治体制が今後マルキシズムを捨て、儒教を土台にした体制に向かうという衝撃的な見通しを示した。中国共産党指導者と知識人は、既に「儒教社会主義」という言葉を使い始めているという。中国が驚異的な経済発展をもとに国際社会に示す普遍的な価値観は儒教をおいて他にないということである。
(http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-aa4f.html)
少し前「儒教社会主義」という中国政府の新看板を見て驚いたが、本気のような気がする。徐々に民主主義に移行すれば、孟子・陸・王も納得するだろう。
追記(2017.12.27)
「王陽明」のスライドを作っていて、次の文に出会った。「率直にいって私は、経営の「社会的責任」について論じた歴史人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界の誰よりも早く、経営の本質は「責任」にほかならないということを見抜いていたのである」(P.ドラッカー『マネジメント』)
自著について、ドラッカーは「本書全巻を貫くものは、結局、渋沢栄一がかつて喝破した「経営の本質は“責任”にほかならない」という主題につきるといえる」(『マネジメント』ダイヤモンド社版日本序文)とまで述べていて、
Confucian ethics underlie much of Drucker's writing.(Edward J. Romar[2004] Managerial Harmony: The Confucian Ethics of Peter F.Drucker, Journal of Business Ethics)
という指摘があるそうである。これは、儒学(とりわけ陽明学)に現代的意味があることの例証の一つになりそうだ。
追記(2017.12.27)
One ofthe major trends in contemporary Chinese philosophy is “New Confucianism.” New Confucianism is a movement to adapt Confucianismto modern thought, showing how it is consistent with democracy and modernscience. New Confucianism is distinct from what we in the West call Neo–Confucianism, but it adopts many Neo–Confucian concepts, in particularthe view that humans share a trans–personal nature which is constituted by theuniversal Pattern. Many New Confucians agree with Mou Zongsan (1909–1995) that Wang had a deeper and more orthodoxunderstanding of Confucianism than did Zhu Xi.
Wang'sphilosophy is of considerable intrinsic interest, because of the ingenuity ofhis arguments, the systematicity of his views, and the precision of his textualexegesis. Beyond that, Wang's work has the potential to inform contemporaryethics. Although his particular metaphysics may not be appealing, many of hisideas can be naturalized. It may be hard to believe that everything is unifiedby a shared, underlying Pattern, but it does seem plausible that we are deeply dependent upon one another andupon our natural environment for our survival and our identities. I am ahusband, a father, a teacher, and a researcher, but only because I have a wife,children, students, and colleagues.In some sense, we do form “one body” with others, and Wang provides provocativeideas about how we should respond to this insight. In addition, Wang'sfundamental criticism of Zhu Xi's approach, that it produces pedants who only study and talk about ethics,rather than people who strive to actually beethical, has considerable contemporary relevance,particularly given the empirical evidence that our current practices of ethicaleducation have little positive effect on ethical behavior. (https://plato.stanford.edu/entries/wang-yangming/)
儒学の術語を英語ではどのように訳しているのか確認したいと考え、手近なテキストをながめてみた。わかりやすく、参考になる。万葉集を英雄さんの英訳で読んだような効果。上に転載した部分は結論部、現代中国の “New Confucianism”の王陽明に対する見解、陽明学の現在的意義について説得力を感じる意見が述べられている。単なる「論語読み」を生んでも仕方ない、大事なのは実際にbeethicalであろうと努める人を生むことだ、は正しいと思う。この点で現代の倫理教育がほとんど機能していないというのも洋を問わず現実だろう。
追記(2018/1/20)
芝豪「小説王陽明(上)(下)」(明徳出版社、平成18年刊)を読んでいる。<孟子の言に「是非の心は知なり。是非の心はみなこれあり」とある。これが良知である。この良知のないものがいずこにあろうか。ただ良知を致すことだできないだけなのだ」(「陸元静に与う」)>
良知とは是非を判定する心の力。すべての人がこれをもつ。もたないようにみえるのは、私欲に曇らされて良知を実行できないだけのことだ。少し後のデカルトのbon sens(良識)に近い。良知ははっきり価値判断能力を含む。敵幾千万ありともわれ良知でゆく、というのが陽明。良知だけでいろいろな物事をうまく処理できるか、という疑問はもっとも。陽明は、処理できる!と断言する。突撃!という声かけに近く、人を勇気づける。書斎にとじこもりきりでいたり、王宮で陰謀をめぐらすよりずっと好ましいのは間違いはない。良知説を支持するわけではないが、良知や赤子の心に対する着目と擁護には同意。心ひそかに思っていたことを陽明がはっきり述べてくれているという感想をもった。私としては、陽明が朱子学改善のため打ち出した思想よりむしろ、彼の人物、生き様、事上で成し遂げたことども(格物)に強い魅力を感じる。
追記(1/21)
良知はすべての者の心に中に完全なかたちである。それを実行すればよい。実行すればそれが正義である。ただ、良知を実行しようとするとき(そのような意志をもつとき)、私欲により良知が曇らされていて正義の実行とならないことがある。多くの者の場合、そのようになる。曇りをとるために物の理を窮めたり、経典を読んだりすることは必ずしも必要ない。日々の活動のなかで、曇りをとる功夫を行なえば(事上磨錬)十分である。最もいけないのは、経典を読みそれで終わりとする態度である。実行を伴わない知は知ではない。
陽明思想のコアな部分を書き出してみれば、大体このようなことか。一切の曇りなき良知の保持者を「聖人Z」と呼ぶとすれば、行為Aは正しい iff 聖人ZはAを是認する、ということになろうか。陽明は、街をゆく人すべて聖人(満街聖人)と言っている。この聖人は聖人Zではあるまい。曇りをとる功夫の進境著しい人とそうでない人はいよう。良知の保持者のことならばすべての人がそれであるわけだから、矛盾はない。実践、修行を重んじるという点で禅と近い。床の間に飾ってある儒学ではなく、世に生き、暮らしの励みとなる儒学復活をめざしたという点で陽明が多くの人々にインパクトを与えたのは了解できる。
追記(1/23)
致良知(勉強)
良知
百科事典マイペディアの解説
先天的に人の心にそなわった理性知。孟子の創唱。明代の王陽明は〈大学〉の致知を致良知と解し,人欲を除去して良知の力を現す修養法を説いた。
致良知
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
中国,明の思想家,王陽明の中心学説。『大学』の「致知」の「知」を『孟子』尽心上編の「良知」で解釈した説。陽明 49歳のとき,教導のスローガンとして掲げられた。これにより,47歳の年に成った『大学古本序』も改定している。
この説の掲示以前,種々の論 (知行合一,静坐,格物) が掲げられたが,この「致良知」説が最善のものとされ,陽明晩年の総決算がこの句にこめられているという。
自己の固有する,是非善悪を直覚的に弁明する心の作用が「良知」であり,その良知に従って事物に対処し,かつその対処を通じて良知を顕現させるのが「致良知」の意味であると説く。
デジタル大辞泉
良知を最大限に発揮させること。良知はもと孟子の唱えたもので、王陽明はこれを陽明学の根本的な指針とした。
日本大百科全書(ニッポニカ)
王陽明(守仁)晩年の思想を表す用語。良知を推し究め発現すること。
古来『大学』の格物致知についての解釈はさまざまあった。王陽明は「格」を「正す」と読み、格物とは心の不正を正すことだとした。致知については、「知」を「良知」と解釈して、心に本来具有している良知を拡充、発揮することだと考えた。
朱子(朱熹)は「知」を知識と解して、致知とは知識を推し究めすべてを知り尽くすことだとする主知主義の立場をとった。それに対して、王陽明は、朱子の態度を知識の量的拡大だけを求めるものとして批判し、人間の心の生命力あふれる働きを重視したのである。
『孟子』にみえる良知は、王陽明によって、道徳的行為の基準であり、善悪を知って不善を退けようとする道徳意識である、とみなされた。したがってそこでは知識を外に求める必要はなく、さらに晩年には心の不正を正すことよりも、良知が本来もっている姿を自覚し、それを発現することがもっとも重要とされていったのである。[杉山寛行]
陽明思想の変遷がわかる解説群
1.良知は孟子の創唱(『孟子』尽心上編「人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮らずして知る所の者は、其の良知なり」)
2.良知に従って事物に対処し,かつその対処を通じて良知を顕現させるのが致良知
3.人欲を除去して良知の力を現す修養法を説く
4.致良知:陽明 49歳のとき,教導のスローガンとして掲げられた
5.致良知説:陽明晩年の総決算(それ以前、知行合一,静坐,格物)
6.良知が本来もっている姿を自覚し、それを発現することがもっとも重要
7.朱子の態度を知識の量的拡大だけを求めるものとして批判、人間の心の生命力あふれる働きを重視
陽明思想はのみこみにくい部分を含んでいる。いくつかの説が互いにぶつかりあうのではないかが基本的な心配。致良知説を陽明晩年の総決算とみてよいのなら、大分楽になる。事上磨錬は致良知説を補う強力なパートナー。知行合一も矛盾はすまい。天地万物は本来一体であり、他者の苦しみは自分の苦しみでもあるという、宋の程明道を引き継ぐ万物一体の説もOK。満街聖人がこの枠組みでは最も苦しいところだろう。すべての人が良知をもち、潜在的には聖人である、という説と理解すれば、なんとかおさまる。性善説の孟子の後継、拡大というのは自然な分かりやすい見方。陽明は、孔孟の教えを本来の姿で、あるいは本来の生きた姿で継承しようとした。
追記(1/25)
佐藤 一斎(1772ー1859)
岩村藩家老の佐藤信由を父に、江戸藩邸で生まれた。朱子学や陽明学に通じ、幕府の学問所「昌平黌」の儒官(現在の大学学長)を務めた。門人に佐久間象山や横井小楠、渡辺崋山らがおり、象山の教えを吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬が受けた。寛政異学の禁後の林家塾頭,昌平黌教授の立場から表向きは朱子学を標榜したが,実際には王陽明の影響を深く受けており,尊敬をこめて「陽朱陰王」などといわれた。
『言志晩録』
一斎が後半生の四十余年にわたり記した随想録。指導者のための指針の書とされ、西郷隆盛の終生の愛読書. 人間の内心に具備されているともとらえられる「天に事 (つか) える」ことの必要を説いた,その所説は迫真力に富み,幕末の思想に多くの影響を与えた。
第60条
少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず
「その所説は迫真力に富み」は最高の評価。佐藤一斎、どこかで会った気がすると思い調べたところ、http://omg05.exblog.jp/24328173/にあった。日本思想に詳しい人にとっては当たり前の人物なのだろうが、老いても学ばない私にとってはじめての人。第60条は学ばんとする人を勇気づけるすぐれた言葉だ。
追記(1/27)
「伝習録」巻中「聶文尉に答ふ」から(「小説王陽明(下)321ページ)
「良知はだれの心にもあります。聖人にあって愚者にないということはありませぬ。天下古今を通じて例外は一つもないのです。世の君子はただ良知を致すことに努めさえすれば、自ずから是非の判断は公平になり、好悪の感情はいかなる人とも同じになり、人のことをわがことのように見、国のことをわが家のように見て、天地万物が一体であることを知るに至るのです。治国平天下の自在なることは、これを見るだけで自明でありましょう」
<理想的観察者(=行為者@陽明)においていろいろな事柄について意見の不一致は消える>という考えが述べられている。道徳的実在論に分類しようとすればできそうだが、釈迦同様、相手に応じて自在に教えを説いた陽明だ、「良知を致すことに努めなさい」と勧めていると解釈したほうが安全だろう。学ぶこと、修養を積むことにより誰でもよりすぐれた人間になることができる、よく励みなさい、というのが孔孟以来の儒学の基本的精神のようだ。
「良知はだれの心にもあります。天下古今を通じて例外は一つもないのです」。これは非常に強い主張。その証拠は?などと西洋的懐疑主義者は問いそうだ。しかし、ポイントはそこにはない。そのように考えることにより、すべての人に希望を与えることができるという点に力点がありそうだ。あなたにも良知がありますよ、自信をもっていいんですよ、励みさえすればあなたも立派な人間になれますよ、という勇気づけだ。
追記(1/27)
佐藤一斎『言志四録』拾い読みはじめ。
「少年の時は、まさに老成の工夫をあらわすべし。老成のときは、まさに少年の士気を存すべし」(言志録34)
(若いときは、歳をとった経験者のように工夫をせよ。老年のときは、少年のような志を保持せよ)
「老成のときは、まさに少年の士気を存すべし」。そのようにありたい。
追記(1/28)
修己治人(しゅうこ ちじん):自分の修養に励んで徳を積み、その徳で人々を感化して、世を正しく治めること。儒教の根本思想
英訳:self-discipline for governing others, building up oneself to manage others
グループのリーダーには必要な考え方。修養がない場合、力や権威、威嚇、恐怖により人を治めることになる。今の世の中、グループはさまざまあるから(人の数より多い)、政治家や教師はもとより、いろいろな人にとって修養が必要になる(力、権威、恐怖などにより治めようとする人は別である)。
追記(1/31)
朱子の意味での格物(事物の窮理)は東洋では進まなかった。進んだのはもちろん西洋である。コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートン以後の科学の発展は周知の通りである。この展開は陽明と矛盾するだろうか。矛盾しない、十分両立すると思う。陽明の枠組みにあった空白の部分を自然科学、社会科学が埋めてくれると解釈して問題なかろう。逆の言い方をすると、科学を中核とする西洋の学問の空白を朱子学をベースとする陽明学が埋める。空白とは倫理、道徳だ。これは荒っぽい理解だろうか。
追記(王陽明ミニ講義 2018/1/30)
ただ生きればいいってものじゃない。では、どうやって生きる?
他の人がこの問題についてどう考えているか、どう生きたかを知ることは参考になる。なにか手本があれば見えてくるものがあるだろう。
今から考えると、私は手本なし、こういう授業なし。手探り、出たとこ勝負。唯一頼れるのは心(見栄を張れば良心)、といった状態だった。
良心がすべてのコアと喝破したのは王陽明(16世紀明の思想家、官吏、武将)。彼はそれを「良知」と呼んだ。
良知は誰にでもある。それを発現させればよい(致良知)。
どうやって?四書五経を読む?
みな仕事があるのだから、日々の仕事の中で仕事を通じて良知を確認しつつ、磨いていけばよい(事上磨錬)。
そうやっていけば、平和で豊かな社会(平天下)が実現する(平天下の実現は儒学の最終目標ーこの目標は立派)。
科挙受験のための学びなどダメ。科挙突破のため四書五経を学び、合格した途端全部忘れて出世のみを考える風潮があるようだが、これはノーグッド。
そんなことを孔子や孟子は望んでいなかった。
実際の行動に反映されないのなら、その知はまがいものだ(知行合一)。
人はだれでも良知をもつ。多くの人がそのことに気づかないのは、心が私欲で曇っているから。
修養することによって(つまり、事上磨錬を通して)人はだれでもすぐれた人間(聖人)になれる(満街聖人)。聖人は選ばれた人の特権ではない。
繰り返しになるが、人はだれでも修養を積むことによりよりよい人間になれる。
Stay be hungry!
追記(2/3)
人類は長い間氏素性で人に序列をつけてきた。その考え方は間違っている、仏の下すべての人は平等、法の下すべての国民は平等に扱われる、として平等の思想が実現されてきた。これはもちろん良いことである。しかしこれは、人間性において、あるいは人格において人の間に優劣がありうる、という考えと矛盾しない。すぐれた人格がありうるということは、修養の前提である。
メモ
孟母三遷の教え
孟子の母が、はじめ墓所の近くに住んでいたところ、孟子が葬式のまねをして遊ぶので市中に引っ越した。今度は商売のまねをするので学校のそばに引っ越した。すると礼儀作法をまねたのでそこに居を定めたという故事。教育には環境からの感化が大きいという教え。(大辞林 第三版)
孟母断機の教え
孟子が学業半ばにして帰省した際、孟子の母が織りかけの機はたの糸を断ち切り、学業を中途で放棄することはこのようなものであるといましめた故事。断機の戒め。(大辞林 第三版)
孟子
人間の本性を性善説で把握,覇道を排して王道による天下統一を説いた。つまり,天意は仁心に基づいた民生安定にあるので,天子はこの民本主義の仁政を行う責任を負っていて,その成否によって生じる天下民心の向背に基づいて天から任免されるとした。その思想は宋代の朱子学によって高い評価を受け,《孟子》は《論語》と並称され,〈孔孟の道〉は儒教の代名詞となった。 (百科事典マイペディア)
by omg05
| 2018-01-28 09:47
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