「テアイテトス」(田中美知太郎訳、岩波文庫)備忘録
知識:例「君はテアイテトスである」
0 問題:知識とは何か
1 知識とは感覚である(knowledge as nothing but perception)
2 知識とは真なる思いなし(ドクサ)である (knowledge as true judgment)
3 知識とは真なる思いなしに言論(ロゴス)が加わったものである(knowledge as a true judgment with an account 38節~)
「正しい思いなしに言論の加わったものがすなわち知識であると定義している人は、三つのうちのどれか少なくとも一つを言論であるとして定めることになろう」
1) 音声のうちに投影された、思考のいわば影のようなもの
2) 要素を通して全体にいたる行程
3) おのおのがそれでもって自余のものから分かれて別になる、その分れ目をつくるところの差別(differentia)
1)、2)はミステリアス、不明。
3)
「ところで、いまもしひとがおよそあるものの中のーそれは何でもいいのだがーとにかくも何かについて、それの正しい思いなしをもっていて、その上また更にそれをその他のものから分つところの差別をも把握したとするならば、その者は、その時まではそれを思いなす者に過ぎなかったのに、いまは、まさにそのものを知識している者になるはずなのだ」
一見よさそうだが、細かくみていくと疑問あり
例:テアイテトスについての正しい思いなし 「君はテアイテトスである」
テアイテトスの差別性(テアイテトスと他のすべてを分つことがら群X)を言葉で示せば、単なる正しい思いなしでなく、知識になる。
言論を追加する前:Xのうちのどれ一つ、思考の上で触れていなかった。触れていたのは人に共通のもの、テアイテトスがとくにもっているものではない
テオドロスかほかの誰かかももっている性質:「人間であって、目もあり鼻もあり口もありで、つまりそういうふうにして肢体のおのおのをまた一つ一つ具備している」
しかし、もしそうなら、「いったい全体そういう事情の許にあって、僕が他の誰か任意の者を思いなさずに、特に君を思いなすということは、どうしてできたのだろうか」 できはしない
*ちょっとした異論:言論を追加する前、Xのうちどれ一つ思考の上で触れてこなかったというケースについてソクラテスは論じている。しかし、いくつか触れていた、だからぼんやりとではあるがテアイテトスをキャッチできていたというケースもある。この場合知識にならない、Xの要素すべてを把握してはじめて知識となる、と考える立場もありえよう。
「テアイテトスというものが僕の中で思いなされるのには、あらかじめ君のその鼻の凹みが、僕のこれまでに見た他のいかなる鼻の凹みからも異なるところの、何か差別的な標識を僕の脳裏に記憶のよすが(記念)として印象づけ、固定させておくということがなければならんのであって、いやしくもそれ以前にはありうべからざることであろう」 正しい思いなしの段階ですでに差別性は把握されている
いま一つの問題:把握されている=正しく思いなされている、もしくは知られている
正しく思いなされている?
「差別性については、それの正しい思いなしだって、やはり、それぞれのものについてあるかもしれんのである」
「すると、すでに正しい思いなしがあるのに、これに加えて更に言論を把握するというのは、その上、どういうことになるかね。というのも、ものがどこのところで他から分かれて別になっているかを、その上更に思いなすようにせよと言明しているのだとしたならば、その指令は全く滑稽なことになるからだ」
なぜ?
「それがわれわれに命じているのは、およそ何ものについであれ、どこのところでそれが他のものから分かれて別のものになっているかということの、正しい思いなしをわれわれはもっているのに、そのものについて、更にまた、それがどこのところで他のものから分かれて別のものになっているかの、正しい思いなしを追加把握せよということなのである」
これは無駄な繰り返し(屋上屋を重ねること) 愚か
知られている?
言論を追加把握する=差別性を(正しく思いなしでなく)知る、なら、論点先取でダメ 全く愚かしい
結論
「従って、知識であるのは、テアイテトス、君のいう感覚でもなければ、また真なる思いなしでもなく、そうかといってまた真なる思いなしに言論の加わってできるものでもないということになるだろう」
産婆術
テアイテトス「産むだけのものはもうすっかり産んでしまった」
ソクラテス「この後、テアイテトス、もし君が他のものをお腹にもつようにしようと試みることがあって、もしそれをもつようになるとしたならば、君は今のこの吟味のおかげで、もっとよいものをもって充たされることになるだろうし、・・」
(工事中)「テアイテトス」勉強。素人読み。1)、2)が不明。たぶん重要な論点ではなさそうだからOKか。
追記
差別性が思いなされているというオプションについて:テアイテトスによく似た双子の弟がいたとしよう(彼は数学者でなく自然学者)。ソクラテスは、テアイテトスを他のすべてから分つ差別性すべてを把握しているわけではない。目の前にいるのはテアイテトス本人。だから「君はソクラテスである」は正しく、ソクラテスは目の前の若者について正しい思いなしをもっている。これは完全なまぐれでそうなっているというわけではなく、差異性を特徴づける集合Xのかなりの部分(とえば無理数について知っている)を把握していることによっている。しかし、知識はもっていない。それもつためには彼が双子の弟の方ではないことを把握しなければならない。つまり、正しい思いなしの段階で差別性はある程度把握されているものの、完全には把握されていない。だから、差別性が完全に思いなされると要求することは屋上屋を重ねること、無駄な繰り返しではない。差別性について正しい思いなしでよいのか、知識が必要なのではないのか?という疑問はありうる。そうであれば、知識を定義するにあたり知識を使うという循環論法になるというソクラテスの指摘がきいてきそうだが・・。ここはたしかに慎重に考えるべきポイントではある。
追記
田中美知太郎氏の解説は秀逸と思う。その一部から。
まぐれ当たりというだけの真なる思いなしから知識をきびしく区別するのはプラトンの根本思想の一つ
(「メノン」「饗宴」「国家」「チマイオス」などに一貫してみられる)
「メノン」:知識=真なる思いなしのうち「アナムネーシス」(想起)によりえられるもの(私の解釈)
「テアイテトス」で扱われる例:テアイテトスの顔、車の材木、蠟板の刻印、鳩小屋の小鳥、見知っている人と見知らぬ人の区別、算術の計算
(知識=感覚、=思いなし、に親和的な例)
これらの例はメノン的な知識定義(イデアに近い)から遠い
「メノン」と「テアイテトス」は直接つながらない
プラトン全哲学の中での位置づけを再考する必要あり
「ピレボス」(55C-62D)が参考になる
「テアイテトス」ではたしかに、感覚説に親和的な例がもっぱら取り上げられていて、「ソクラテスの母親は産婆だった」「アテナイとスパルタは歩いて一日の距離にある」「太陽は東から上がって西に沈む」等の命題は扱われない。議論の主なターゲットが感覚説、そのバックにあるプロタゴラス・ヘラクレイトス説にあったからであろうが。
追記
「ピレボス」(55C-62D)
*「知識と知識の間にも差異があり、一方の知識は生成し消滅するものに注目するけれども、他方の知識は生成も消滅もしないで、常に同一同様のあり方をしているものに注目する」「真実性に注目する限、後者の知識の方が前者より真実性が多い」
*「「ある」もの、「真実にあるもの」、そして「常にあらゆる面で同一性をたもっているもの」についての知は、はるかに真実この上ない知である」
生成し消滅するものについての知識と常に同一同様のあり方をしているものについての知識を分けている。「テアイテトス」で扱っているのはもっぱら後者であるようだ。
追記(2019/1/28)
渡辺邦夫訳「テアイテトス」光文社文庫、2019年をいただいた。「テアイテトス」決定版。最新の研究を反映したすぐれた注、解説も大いに参考になる。知識論の古典中の古典がわかりやすい訳で読めるのはうれしい。円熟した訳業。渡辺さんの解説に基づき、上も書き直す必要があるようだが、当座そのままにしておきます。「テアイテトス」、「省察」、ゲチア論文が知識論の3大古典かな。ゲチア論文は「テアイテトス」結論部に直結する、というのが私の解釈。ふつうの解釈か。
追記(2019/2/03)
イデアは実在し、われわれはそれを知ることができる。問題1.どうしたらイデアを知ることができる?2.知ったとしても実際知っていることをどうやって確認できる?(メノンの指摘)3.そもそもイデアを「知る」とはどういうこと?(「テアイテトス」のテーマ)。これらの問題にうまく答えられないなら、「イデアは実在し、われわれはそれを知ることができる」という主張は支えを失う。単に、言い張っているだけになる。つまり、イデア説に説得力を与えるためには、知識に関するそれらの問題にうまく回答する必要がある。
追記(2019/2/07)
プラトンによる知識の問題の導入:哲学フィロソフィア=知恵(ソフィア)を愛しもとめる(フィロ)こと。知恵(ソフィア)とは知識(エピステーメー)のことではないかね。そうです。それでは、知識とは何だろう。フィロソフィア自身について反省してみよう、というかたちで議論がはじまっている。