形而上学を見直す |
熊野純彦「西洋哲学史」を読む。岩波新書、2006年刊。
下巻にあたる「近代から現代へ」を先に読み、次に上巻にあたる「古代から中世へ」を読んだ。
事前に2,3の書評に目を通したが、おおよそ同じ感想。
魅力的だが、必ずしも初心者向けではない。
それなりに勉強を積んだ同業者に最も歓迎されるだろう。
魅力的な部分は一部、著者のフランス風文才(?)に負っている。
ごりごりに詰めるというような野暮なことはせず、あるところで大胆に切断、終了させることで、ある種の香りを残すことに成功している。
学生時代に読んだ、フランス語解釈の参考書を思い出した。
接続部には、哲学者相互間の関係を語るいろいろなエピソードが散りばめられていて楽しい。
どの哲学者についても特定の視点から切断、その視点から見られる限りのものを提示する、というスタイルは思い切りがよいが、別の視点から見えてくるはずのものが見えてこない、というリスクを伴う。
そのリスクは、もっと「標準的な」哲学史で補う、ということでよいのだろう。
「同業者」は標準的な話はおおよそ知っているから、補いはあまり必要ないだろう。
話は飛ぶが、少し前、昨今話題のリサ・ランドール「ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く」 の話を「聞いた」。
私の理解では、余剰次元である5次元を考慮に入れた物理理論を作り、そこから4次元時空についての現在の理論とそこでの未解決の問題の数々を説明するという話。
理論の一部はヨーロッパで稼動しはじめた高エネルギー加速器でテストできる、とのこと。
現在の物理理論を基礎にしながら一つの仮説をつくっているわけだ。
テストからかなり遠い仮説という点では、形而上学理論に似ている。
現在の宇宙論では、この宇宙は137億年前「無」の状態から大爆発を経てできた、ということになっている。
無とは文字通りの無ではなく、エネルギー状態の非常に高い状態。
無から存在の成立という話ではない。
存在の形態が137億年という時間を通じて変わってきた、現在も変わりつつあるという話である。
存在そのものとは何か、なぜ無ではなく存在か、という古代からの大問題は相変わらずアポリアの地位を失っていない。
テスト可能な仮説は物理学者がこれからも作り続けるだろう。
しかし、テストできなくてもよいから、物理学理論と整合的な仮説、宇宙と存在についての仮説を聞きたい、という気がする。
せめてストーリーくらい聞かせてもらえないだろうか、と思う。
もちろん「神がこの世をつくった」式の話ではなく、物理学にそれなりに密着したストーリーを聞きたい。
こういうねがいがあったので、プロチノスや中世哲学、スピノザをはじめとする近世・近代の形而上学(存在論)は面白かった。
われわれの手にする思考のための道具立ては、存在の謎を解くには貧弱すぎる、という考えもあるかもしれない。
しかし、そんなことを言っても何もはじまらない。
手持ちの道具立てで迫るしかない。
ということで、このところ伝統的な形而上学を見直す気分になっている。