神の存在証明 |
神もたしかに知識の限界においてあらわれる概念。神の存在は,宇宙があるという謎の説明として無碍には否定できない可能性。
これまでの存在証明を整理すると
1.存在論的証明(11cアンセルムス):神の定義からの演繹ontological argument
2.宇宙論的証明(13cT.アキナス):第一原因としての神cosmological argument
3.目的論的証明(1cパウロ):世界の規則性の原因としての神
4.道徳論的証明(18-19cカント);神とは道徳が有意味であるために要請されるもの
に分類される。
ごくごく簡単に説明すると,
1.神とは完全な者である。完全であることは存在することを含む。よって,神は存在する。
おおざっぱに要約すれば,これが存在論的証明。デカルト,ゲーデル(1970)は1。
2.リンゴが木から落ちた。それには原因があるはずだ(どんなものにも原因がある,とするのが因果律causality)。その原因そのものにも原因があるはずだ。・・・原因の系列の最後に原因があるはずだ。それが第一原因としての神。これが宇宙論的証明。
3.世界の出来事には規則性がある。すべてが特定の目的のもとにできているように見える。これが実現するためには,それを設計した存在者がなければならない。それが神。これが目的論的証明。
より細かい分類と批判が
B.ラッセル:From: Why I am not a Christian, 1927, Chap.5
(http://russell.cool.ne.jp/beginner/GOD-EX.HTM)
にある。
カントは,存在は性質ではない,として1を退け4を選択した。
道徳に従って生きることが有意義であるためには,神の存在が必要。
言いかえれば,もし神が存在しなければ,道徳は空しい。
神は存在するか?理論理性ではそれを証明できないし,存在しないことも証明できない。
だから,道徳は空しいことを証明することもできない。
道徳にとってこれで十分。
4の道徳論的証明は,おおざっぱにいえば,こういう議論。
存在は性質ではないとすると,存在とは何か。
クワインの「存在するとは変項の値となることである」という主張が名高い。
(Quine's 1948 article, "On What There Is," first published in the Review of Metaphysics. The article is included in Quine's book, From a Logical Point of View (Harper & Row, New York: 1953))
簡単に言うと,次の議論か(未確認)。
P(x)であるようなxが存在する
iff xはPである for some x which belongs to a set D
これは論理学のふつうの分析だが,これによれば,
存在するかどうかは,ある世界で特定の出来事が成り立っているかどうか,と言いかえられる。
つまり,「存在」は消去できる。
これを神に適用すると,
神は存在する
iff xは神である for some x which belongs to the set of everything
神が存在するかどうかは,特定のものcについて,「cは神である」を認めるかどうか,に還元される。
たとえば,X氏が神であることが,するわち神が存在するということ。
この存在消去主義は私には魅力的。
なぜ世界は存在するのか?どのようにして無から存在が生成したのか?という難問が消滅するように思えるからだ。
しかし,本当にこの問題は消滅するのか。
(工事中)