2012年 09月 05日
入間様(いるまよう) |
昔のことだが,同僚何人かと雑談していた。突然,年配の新人(物理学者)が,笑いながら,「入間ことば」を話す人が本当にいた!と私に向かって言った。何を隠そう私は入間出身。その私が「入間ことば」を使っているのを見て,驚いたとのこと。私は「入間ことば」ということばを知らなかった。ましてや,そのようなことばを使っていることも自覚していなかった。そのときは,そんなことばが田舎にあるのか,と思った程度である。それから幾星霜,先日も入間ことばを使っている,と冷やかされた(賞賛された?)。ここに至ってようやく「入間ことば」を調べる気になった。ネットを調べたところ,あっという間に見つかった。
狂言「入間川」に由来するようだ。それによると,
訴訟に勝った東国の大名は太郎冠者を伴って本国に帰ります。途中、入間川に差し掛かかり、川向こうにいる入間の某に言葉をかけます。渡り瀬を問うと、ここは深いという答えが返ってきます。すると、ここは入間であるから「入間様」という意味が逆さの方言であるといって、構わず川を渡っては、はまってずぶ濡れになってしまいます。なんとか助けられた大名は怒って成敗しようとしますが、某が「成敗する」とはしないことだと入間様を使って反論すると、大名も面白がり、扇に太刀、最後には裃までを与えては「かたじけのうもござらぬ」と答えさせて楽しみます。しかし、最後には入間様を使って取り返してしまうのでした。
狂言に採用されている以上,それ以前から入間地方には「入間様」(いるまよう)ー逆さことば、今どきの言い方をすれば、入間スタイルーというスタイルが存在していたことになる。「入間川」が作られたのは15世紀中頃以前とのこと。ということは,少なくとも中世までさかのぼる。
ことばを標準的ではないやり方で使う入間様には,ある種の深さ,奥ゆかしさがあると思う。狂言「入間川」では,最後は「大名」に逆手をとられ,やられてしまう。入間様の真の使い手はそうはならないと思うが,そう思っているだけで,やはりそうなってしまうのがこの世の定めなのかもしれない。
(なお,入間川(現埼玉県狭山市)には,文和2年/正平8年(1353年)に鎌倉公方足利基氏が宿営地を設け,9年間北関東の上杉氏勢力に対抗した。入間川御陣もしくは入間川御所と呼ばれた,とのこと)
2009-12-19

追記(12/17/2016)
数日前狂言「棒縛り」を鑑賞した。楽しめた。久しぶりの狂言。帰宅してから「入間川」も狂言かと気づいた。それとともに、このところ、入間ことばを使っていないな、と気づいた。私は入間生まれの入間ことば使用者。オーバーな言い方をすれば、伝承者。私はこれまでいろいろな方々とお付き合いさせていただいたが、私を上回る入間ことばの使い手はいなかったというのが実感。みな誠実な方々だ。入間ことばは小太刀のようなもので、ふだん使うものではない。いざ、というときの技。入間一之太刀。このところ、いざ、がないなあ、ということか。平和でよい、ということだろう。狂言の伝承によれば、入間地方は入間ことばの里。「郷土芸能」のようなものとして伝承するというシステムはないのだろうか。
追記(12/20/2016)
若い同僚の公開授業(国語)を聴講した。わが国最初の勅撰和歌集、古今和歌集の週。古今和歌集には漢文で書かれた序とかなで書かれた序があり、その異同の話からはじまって(一部漢文学習の応用)、編者紀貫之の代表的な歌がとりあげられ、わかりやすく解説されていた。
取りあげられていたのは、
春たちける日よめる
袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つ今日の 風やとくらむ
という歌。
立春の日の今日の風は、袖をひたしてすくったあの水が、凍っているのをとかすだろうか
というのがその大意(http://www.milord-club.com/Kokin/uta0002.htm)。五経の一つ 「礼記」の月令にある"東風解凍"に基づいているとのこと。現代語に訳すと感動薄くなるものの、オリジナルは立春の日をやはらかくうたった見事な歌と思う。
授業によると、この歌には、3つの季節ー夏、冬、春の水の変化が組み込まれている。そればかりでなく、「袖」の縁語(むすぶ、はる、たつ、とく)がたくみに織り込まれている。
古今和歌集が万葉集に比べて技巧的と言われるという話はその昔耳にした。そう評される理由がわかった。しかし、歌が、当時の文人たちが共有していた漢籍の素養等をバックに、いろいろなつながりを秘めてみせているというのは、言葉の非標準的用法に重きを置く「入間様の伝承者」にはポジテイブな意味をもつ。伝承者が属するのは、大らかに語れない世界、「秘すれば花」「物言えば唇寒し」の世界だからである。(貫之の歌自身は明るく、くったくがない。夏の日に袖をぬらしてともに川遊びに興じた女性に贈った歌だろうか)
私は以前、SF映画「マトリックス」について、その東西思想的含意をさぐる、という授業を試みたことがある。今回は紀貫之の歌について同様のこと(諸含意をあきらかにする)が行われていて、かつ、私よりかなり上手に行われていて、わが意をえたり、また感心したりもした。身近に授業の名手がいたということを知って、心強く思った。
狂言「入間川」に由来するようだ。それによると,
訴訟に勝った東国の大名は太郎冠者を伴って本国に帰ります。途中、入間川に差し掛かかり、川向こうにいる入間の某に言葉をかけます。渡り瀬を問うと、ここは深いという答えが返ってきます。すると、ここは入間であるから「入間様」という意味が逆さの方言であるといって、構わず川を渡っては、はまってずぶ濡れになってしまいます。なんとか助けられた大名は怒って成敗しようとしますが、某が「成敗する」とはしないことだと入間様を使って反論すると、大名も面白がり、扇に太刀、最後には裃までを与えては「かたじけのうもござらぬ」と答えさせて楽しみます。しかし、最後には入間様を使って取り返してしまうのでした。
狂言に採用されている以上,それ以前から入間地方には「入間様」(いるまよう)ー逆さことば、今どきの言い方をすれば、入間スタイルーというスタイルが存在していたことになる。「入間川」が作られたのは15世紀中頃以前とのこと。ということは,少なくとも中世までさかのぼる。
ことばを標準的ではないやり方で使う入間様には,ある種の深さ,奥ゆかしさがあると思う。狂言「入間川」では,最後は「大名」に逆手をとられ,やられてしまう。入間様の真の使い手はそうはならないと思うが,そう思っているだけで,やはりそうなってしまうのがこの世の定めなのかもしれない。
(なお,入間川(現埼玉県狭山市)には,文和2年/正平8年(1353年)に鎌倉公方足利基氏が宿営地を設け,9年間北関東の上杉氏勢力に対抗した。入間川御陣もしくは入間川御所と呼ばれた,とのこと)
2009-12-19

追記(12/17/2016)
数日前狂言「棒縛り」を鑑賞した。楽しめた。久しぶりの狂言。帰宅してから「入間川」も狂言かと気づいた。それとともに、このところ、入間ことばを使っていないな、と気づいた。私は入間生まれの入間ことば使用者。オーバーな言い方をすれば、伝承者。私はこれまでいろいろな方々とお付き合いさせていただいたが、私を上回る入間ことばの使い手はいなかったというのが実感。みな誠実な方々だ。入間ことばは小太刀のようなもので、ふだん使うものではない。いざ、というときの技。入間一之太刀。このところ、いざ、がないなあ、ということか。平和でよい、ということだろう。狂言の伝承によれば、入間地方は入間ことばの里。「郷土芸能」のようなものとして伝承するというシステムはないのだろうか。
追記(12/20/2016)
若い同僚の公開授業(国語)を聴講した。わが国最初の勅撰和歌集、古今和歌集の週。古今和歌集には漢文で書かれた序とかなで書かれた序があり、その異同の話からはじまって(一部漢文学習の応用)、編者紀貫之の代表的な歌がとりあげられ、わかりやすく解説されていた。
取りあげられていたのは、
春たちける日よめる
袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つ今日の 風やとくらむ
という歌。
立春の日の今日の風は、袖をひたしてすくったあの水が、凍っているのをとかすだろうか
というのがその大意(http://www.milord-club.com/Kokin/uta0002.htm)。五経の一つ 「礼記」の月令にある"東風解凍"に基づいているとのこと。現代語に訳すと感動薄くなるものの、オリジナルは立春の日をやはらかくうたった見事な歌と思う。
授業によると、この歌には、3つの季節ー夏、冬、春の水の変化が組み込まれている。そればかりでなく、「袖」の縁語(むすぶ、はる、たつ、とく)がたくみに織り込まれている。
古今和歌集が万葉集に比べて技巧的と言われるという話はその昔耳にした。そう評される理由がわかった。しかし、歌が、当時の文人たちが共有していた漢籍の素養等をバックに、いろいろなつながりを秘めてみせているというのは、言葉の非標準的用法に重きを置く「入間様の伝承者」にはポジテイブな意味をもつ。伝承者が属するのは、大らかに語れない世界、「秘すれば花」「物言えば唇寒し」の世界だからである。(貫之の歌自身は明るく、くったくがない。夏の日に袖をぬらしてともに川遊びに興じた女性に贈った歌だろうか)
私は以前、SF映画「マトリックス」について、その東西思想的含意をさぐる、という授業を試みたことがある。今回は紀貫之の歌について同様のこと(諸含意をあきらかにする)が行われていて、かつ、私よりかなり上手に行われていて、わが意をえたり、また感心したりもした。身近に授業の名手がいたということを知って、心強く思った。
追記(2017.7.04)
欧米に、入間ことばの日があることを知った!正確には、反対(ことば)の日
Opposite Day
Opposite Day
Rooted in playground tradition. A fictional holiday, in which everything you do or say means exactly the opposite. Often used at the end of a sentence to negate what you just said. "You look nice.... on Opposite Day!"
”backward day”ともいうようだ。「入間ことばの日」が海外にもあるというのは痛快。私の好みではないが、わが国でも「入間ことばの日」もしくは「さかさまの日」をはやらせる人がでてくるかもしれない。「アベさん、国民に勝ちましたね!…都議選の日」
これが「ふつう」になると、効果半減。最近、親しくしてもらっている人たちに、(使ってもいないのに)また入間ことばを使っている、と機先を制されて、にっちもさっちもいかなくなっている。多用しすぎたか、と反省しきりである。
by omg05
| 2012-09-05 14:18
| memo
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