the man within the breast |
アダム・スミス(1723-1790)「道徳感情論」(1759)
竹内靖雄「経済倫理学のすすめ:「感情」から「勘定」へ」(中公新書、1989年)
道徳の問題を「理性」の問題でなく「感情」の問題として見る
1. 個人AはBの行動Xを是認する iff もし自分がBならば、自分もXを行ったであろう (想像上の立場の交換)
2. ただし、AはBと利害関係のない第三者である、言い方を換えれば、Aは「公平な観察者」(impartial spectator)である
3. 人は想像上の「立場の交換」により互いに観察者になる、その経験の積み重ね
ー自分の行動について「公平な観察者」がどう見るだろうかを想像できるようになる
ー他人あるいは「世間」の非難を受ける行動を避け、是認される行動をすることを学ぶ(成熟した大人に)
4. 成熟した大人は心の中に「他人の代表」たる「公平な観察者」(impartial spectator あるいは「理想的観察者」)をもつ(「心中にいる人」(the man within the breast))
"It is reason, principle, conscience, the inhabitant of the breast,
the man within, the great judge and arbiter of our conduct”
(The Theory of Moral Sentiments, III.3.5).
5. 理想的観察者は「公平」プラス「分別がある」(well-informed)人でなければならない
6.行動Xは社会的に是認される「妥当性」をもつ iff 理想的観察者の「共感」がえられる
7.もし人々の利己心がこの「妥当性」の範囲内にとどまれば、社会は無難に存続する
8.利己心が「妥当性」の範囲を超えた場合、その行動を排除する必要がある。それは最終的には国家の仕事。
ヒューム、アダム・スミス的世界には「神」はいらない。
「恥の倫理」のタイプに属す(「罪の倫理」でなく)。
「正」(あるいは「義」)の理解はおおよそこれで問題ないのではないか、と思う。
追記
ヒューム、アダム・スミス流の理解は(たとえば神により、善と悪はピタリと決まっているという実在論とは異なり)、道徳的判断はいわば変動為替相場風に、各人の成熟に応じて多少変化しうる。やさしいケースではやや未熟でも正しい判断に達する。そうでないケースではミスするか、または判断停止せざるをえない。大人の度合いが高まってくると、ミスも減ってくる。「完全に公平な観察者」は理念である。しかし、ある段階以上ならば、プレ観察者たちの判断はおおよそ一致する、と私は考えている。かなりナイーブな信念ですね、という指摘があることは承知しています。
多様な価値をもつ人々から成る現代社会においてはたして公平な観察者は存在しうる(機能しうる)だろうか、かりにそこで存在しうるとしても、われわれとは異なる社会の人々との接触の場面ー道徳問題の処理の場面において存在しうるだろうか。たぶんどちらの場合も存在しえない(適切に機能しえない)、道徳問題においても、感情ではなく、客観的なロジックによる処理の方がより有望ではないか、というお考えかと思います。
私は、前の方のケースにおいて、われわれの社会において歴史的に形成された「心中にいる人」は存在し、かなりの程度客観的な機能を果たしていると考えています。何がよく、何が悪いかの判断は、たとえばさまざまな文学作品、古典にみられますが、この判断の正しさについてかなり広い範囲の意見の一致がみられるのではないか、と(かなりナイーブですが)考えています。
後の方のケース(異なる文化との接触)においては、道徳の問題は棚上げするのがよいと考えています。論争ではなく交流をすすめ、その過程で形成された(共通の)社会において公平な観察者が形成されるのを待つ、というスタンスです。
理屈により道徳の問題が解けるー「道徳紛争」が解決される、という可能性については私は懐疑的です。
さしあたり、このように考えています。ご提起いただいたのは重要な問題で、私自身まだ練れていませんので、硬いお返事になってしまいました。
典型的な事例に関して何がよくて何が悪いかの判断は大きく一致すると思います。無実の人を殺してはいけないことや物を盗んではいけないこと、など。ただ、道徳が問題となる事例は境界事例で判断に迷う、あるいは教育的・文化的背景の違いが主要素となるような場合だと思っていて、そうすると、結局は各自の「理想的観察者」のどちらがより理想的な観察者なのか、と問わざるをえなくなるのではないか、と思いました。
異なる文化との交流において道徳の問題を棚上げするのは賛成です。道徳の定義次第ですが、そもそも道徳が社会の中で形成され共有された価値観である、と規定したら、異なる社会に属する人々の間で、互いに納得した答えが導出される可能性は絶望的だと思います。
おそらく問題は「理性」「理屈」ということに、どのような意味を持たせるか、ということではないでしょうか。現在、社会的には「発達障害」が注目されていますが、他者への共感や心情理解にそもそも難があるような人とどのように接していくのかを考えたときに、「感情」という能力に訴えるのは危うい気がしています。「道徳紛争」が理屈によってきれいさっぱり解決するのは困難だと思いますが、お互いに大切にしているものや相手の事情を理解し合って、その上で何を譲歩し、どのような判断を是とするかを理性的な話し合いで決定しようという立場は、私には妥当に思えます。
トップダウンの解決方法は導けなくとも、ボトムアップ式にルールを決めていくためには、やはり理性的な営みを重視するほかないのかもしれません。アメリカの選挙を見て、あのように嫌悪感情をむき出しにしたリーダーが誕生していくのを見ると、複雑になってしまいました。omgさんのご意見も経験的にもっともだと思っているのですが、現代社会を見ていると、だんだん心配になってきたというのが、正直なところです。