孟子 |
「孟子」(岩波新書)読了。よくよく孟子に通じた人の著作。好感をもって読むとともに勉強になった。儒学の基本文献を朱子が『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』の4つにまとめ四書と呼んだが、『孟子』は本書により読んだ気分である。孟母三遷、孟母断機の教えは名高い。
追記
島田虔次「朱子学と陽明学」 (岩波新書、1967年刊)を一読。陽明学に至る過程を詳細にえがいた本。ふむたしかに「中国哲学」と呼んでよい内容などと感心しながら読んだのだが、かなり苦しい読書。第三章「王陽明の登場」でぱっと楽しくなった感じ。机の上に置いておいて参照すべき本。陽明には好感をもった。興味深い人物だ。
一読の後拾い読みしている。「一読」の際飛ばした”反逆者”李卓吾も興味深い。中国思想の一休か。童心説にはかなり納得。うっすらと考えていたことをはっきりと述べてくれている。
追記(2017/12/25)
小島 毅「朱子学と陽明学」(ちくま学芸文庫)を読んでいる。2004年放送大学テキストの文庫版、2013年刊。島田氏のものと同名の本。放送用テキストであることもあって大変読みやすい。この分野によく通じた人による平明な筆の運び。感心しながら読んだ。さしあたり新ー儒学の簡単な講義用スライドを作りたいと考えて読んでいるのだが、この目的にとってはありがたい。感謝。
朱子学において西洋哲学風存在論が整備されて、「中国哲学」という言い方に違和感を感じさせない威容を中国思想はもつに至ったという感想をもった。ただ、存在論としてはさほど新味はないように思う。やはり、(私にとっても)興味をひくのは道徳哲学の部分。小島氏の表現を用いれば、「成り上がりの見栄」(朱子)より「放蕩息子の道楽」(陽明学)に魅力がある。朱子流の「格物致知」(個々の物事についてその理を窮め尽くした上で、そうしてえた識見をおし及ぼす)では日が暮れてしまう。また、物事(外的事象)の理を窮め尽くすことが心の理の自覚につながるという話にはジャンプがある。まわりくどい道をたどらずとも、心にある良知は直接キャッチされる、良知の働きにより物事を正す(格物:「大人は君心を格(ただ)す」(孟子))ことが大事である。各人が日々民衆と交わり格物すること自身が自己修養であり(事上磨錬)、平天下の実現なのである(致良知説)。このことに、王陽明は、左遷されて貴州の山間地帯にいた37才の時に気づいたとされる(龍場の大悟)。聖人は(「学んで至るべし」というものではなく)万人に共通する人間本来の姿である(満街聖人まんがいせいじん)。
事上磨錬、満街聖人はロマンチック。多くの人々が陽明学に鼓舞されたこともわかる。
小島 毅「朱子学と陽明学」読了。陽明以降、現代新儒家に至る歴史の記述を興味をもって読んだ。現代新儒家が孟子・陸・王の「心性の学」を正統なものと見ていること、著者が現代社会において大手を振って主張できるのは陽明学のほうであると考えていることなど興味深く、勉強になる。
中国は、儒教社会主義に向かうかもしれない(2010.9.16)
2008年精華大学で政治哲学を講義するダニエル・A・ベル氏が出した著書「中国の新たな儒教」の中で、中国の政治体制が今後マルキシズムを捨て、儒教を土台にした体制に向かうという衝撃的な見通しを示した。中国共産党指導者と知識人は、既に「儒教社会主義」という言葉を使い始めているという。中国が驚異的な経済発展をもとに国際社会に示す普遍的な価値観は儒教をおいて他にないということである。
(http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-aa4f.html)
少し前「儒教社会主義」という中国政府の新看板を見て驚いたが、本気のような気がする。徐々に民主主義に移行すれば、孟子・陸・王も納得するだろう。
追記(2017.12.27)
「王陽明」のスライドを作っていて、次の文に出会った。「率直にいって私は、経営の「社会的責任」について論じた歴史人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界の誰よりも早く、経営の本質は「責任」にほかならないということを見抜いていたのである」(P.ドラッカー『マネジメント』)
自著について、ドラッカーは「本書全巻を貫くものは、結局、渋沢栄一がかつて喝破した「経営の本質は“責任”にほかならない」という主題につきるといえる」(『マネジメント』ダイヤモンド社版日本序文)とまで述べていて、
Confucian ethics underlie much of Drucker's writing.(Edward J. Romar[2004] Managerial Harmony: The Confucian Ethics of Peter F.Drucker, Journal of Business Ethics)
という指摘があるそうである。これは、儒学(とりわけ陽明学)に現代的意味があることの例証の一つになりそうだ。
追記(2017.12.27)
One ofthe major trends in contemporary Chinese philosophy is “New Confucianism.” New Confucianism is a movement to adapt Confucianismto modern thought, showing how it is consistent with democracy and modernscience. New Confucianism is distinct from what we in the West call Neo–Confucianism, but it adopts many Neo–Confucian concepts, in particularthe view that humans share a trans–personal nature which is constituted by theuniversal Pattern. Many New Confucians agree with Mou Zongsan (1909–1995) that Wang had a deeper and more orthodoxunderstanding of Confucianism than did Zhu Xi.
Wang'sphilosophy is of considerable intrinsic interest, because of the ingenuity ofhis arguments, the systematicity of his views, and the precision of his textualexegesis. Beyond that, Wang's work has the potential to inform contemporaryethics. Although his particular metaphysics may not be appealing, many of hisideas can be naturalized. It may be hard to believe that everything is unifiedby a shared, underlying Pattern, but it does seem plausible that we are deeply dependent upon one another andupon our natural environment for our survival and our identities. I am ahusband, a father, a teacher, and a researcher, but only because I have a wife,children, students, and colleagues.In some sense, we do form “one body” with others, and Wang provides provocativeideas about how we should respond to this insight. In addition, Wang'sfundamental criticism of Zhu Xi's approach, that it produces pedants who only study and talk about ethics,rather than people who strive to actually beethical, has considerable contemporary relevance,particularly given the empirical evidence that our current practices of ethicaleducation have little positive effect on ethical behavior. (https://plato.stanford.edu/entries/wang-yangming/)
儒学の術語を英語ではどのように訳しているのか確認したいと考え、手近なテキストをながめてみた。わかりやすく、参考になる。万葉集を英雄さんの英訳で読んだような効果。上に転載した部分は結論部、現代中国の “New Confucianism”の王陽明に対する見解、陽明学の現在的意義について説得力を感じる意見が述べられている。単なる「論語読み」を生んでも仕方ない、大事なのは実際にbeethicalであろうと努める人を生むことだ、は正しいと思う。この点で現代の倫理教育がほとんど機能していないというのも洋を問わず現実だろう。
追記(2018/1/20)
芝豪「小説王陽明(上)(下)」(明徳出版社、平成18年刊)を読んでいる。<孟子の言に「是非の心は知なり。是非の心はみなこれあり」とある。これが良知である。この良知のないものがいずこにあろうか。ただ良知を致すことだできないだけなのだ」(「陸元静に与う」)>
良知とは是非を判定する心の力。すべての人がこれをもつ。もたないようにみえるのは、私欲に曇らされて良知を実行できないだけのことだ。少し後のデカルトのbon sens(良識)に近い。良知ははっきり価値判断能力を含む。敵幾千万ありともわれ良知でゆく、というのが陽明。良知だけでいろいろな物事をうまく処理できるか、という疑問はもっとも。陽明は、処理できる!と断言する。突撃!という声かけに近く、人を勇気づける。書斎にとじこもりきりでいたり、王宮で陰謀をめぐらすよりずっと好ましいのは間違いはない。良知説を支持するわけではないが、良知や赤子の心に対する着目と擁護には同意。心ひそかに思っていたことを陽明がはっきり述べてくれているという感想をもった。私としては、陽明が朱子学改善のため打ち出した思想よりむしろ、彼の人物、生き様、事上で成し遂げたことども(格物)に強い魅力を感じる。
追記(1/21)
良知はすべての者の心に中に完全なかたちである。それを実行すればよい。実行すればそれが正義である。ただ、良知を実行しようとするとき(そのような意志をもつとき)、私欲により良知が曇らされていて正義の実行とならないことがある。多くの者の場合、そのようになる。曇りをとるために物の理を窮めたり、経典を読んだりすることは必ずしも必要ない。日々の活動のなかで、曇りをとる功夫を行なえば(事上磨錬)十分である。最もいけないのは、経典を読みそれで終わりとする態度である。実行を伴わない知は知ではない。
陽明思想のコアな部分を書き出してみれば、大体このようなことか。一切の曇りなき良知の保持者を「聖人Z」と呼ぶとすれば、行為Aは正しい iff 聖人ZはAを是認する、ということになろうか。陽明は、街をゆく人すべて聖人(満街聖人)と言っている。この聖人は聖人Zではあるまい。曇りをとる功夫の進境著しい人とそうでない人はいよう。良知の保持者のことならばすべての人がそれであるわけだから、矛盾はない。実践、修行を重んじるという点で禅と近い。床の間に飾ってある儒学ではなく、世に生き、暮らしの励みとなる儒学復活をめざしたという点で陽明が多くの人々にインパクトを与えたのは了解できる。
追記(1/23)
致良知(勉強)
良知
百科事典マイペディアの解説
先天的に人の心にそなわった理性知。孟子の創唱。明代の王陽明は〈大学〉の致知を致良知と解し,人欲を除去して良知の力を現す修養法を説いた。
致良知
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
中国,明の思想家,王陽明の中心学説。『大学』の「致知」の「知」を『孟子』尽心上編の「良知」で解釈した説。陽明 49歳のとき,教導のスローガンとして掲げられた。これにより,47歳の年に成った『大学古本序』も改定している。
この説の掲示以前,種々の論 (知行合一,静坐,格物) が掲げられたが,この「致良知」説が最善のものとされ,陽明晩年の総決算がこの句にこめられているという。
自己の固有する,是非善悪を直覚的に弁明する心の作用が「良知」であり,その良知に従って事物に対処し,かつその対処を通じて良知を顕現させるのが「致良知」の意味であると説く。
デジタル大辞泉
良知を最大限に発揮させること。良知はもと孟子の唱えたもので、王陽明はこれを陽明学の根本的な指針とした。
日本大百科全書(ニッポニカ)
王陽明(守仁)晩年の思想を表す用語。良知を推し究め発現すること。
古来『大学』の格物致知についての解釈はさまざまあった。王陽明は「格」を「正す」と読み、格物とは心の不正を正すことだとした。致知については、「知」を「良知」と解釈して、心に本来具有している良知を拡充、発揮することだと考えた。
朱子(朱熹)は「知」を知識と解して、致知とは知識を推し究めすべてを知り尽くすことだとする主知主義の立場をとった。それに対して、王陽明は、朱子の態度を知識の量的拡大だけを求めるものとして批判し、人間の心の生命力あふれる働きを重視したのである。
『孟子』にみえる良知は、王陽明によって、道徳的行為の基準であり、善悪を知って不善を退けようとする道徳意識である、とみなされた。したがってそこでは知識を外に求める必要はなく、さらに晩年には心の不正を正すことよりも、良知が本来もっている姿を自覚し、それを発現することがもっとも重要とされていったのである。[杉山寛行]
陽明思想の変遷がわかる解説群
1.良知は孟子の創唱(『孟子』尽心上編「人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮らずして知る所の者は、其の良知なり」)
2.良知に従って事物に対処し,かつその対処を通じて良知を顕現させるのが致良知
3.人欲を除去して良知の力を現す修養法を説く
4.致良知:陽明 49歳のとき,教導のスローガンとして掲げられた
5.致良知説:陽明晩年の総決算(それ以前、知行合一,静坐,格物)
6.良知が本来もっている姿を自覚し、それを発現することがもっとも重要
7.朱子の態度を知識の量的拡大だけを求めるものとして批判、人間の心の生命力あふれる働きを重視
<理想的観察者(=行為者@陽明)においていろいろな事柄について意見の不一致は消える>という考えが述べられている。道徳的実在論に分類しようとすればできそうだが、釈迦同様、相手に応じて自在に教えを説いた陽明だ、「良知を致すことに努めなさい」と勧めていると解釈したほうが安全だろう。学ぶこと、修養を積むことにより誰でもよりすぐれた人間になることができる、よく励みなさい、というのが孔孟以来の儒学の基本的精神のようだ。