2017年 12月 02日
東洋思想 |
王に帝王学を説き、民衆のための政治ー王道政治の実現を孟子は望んだ(「君主は軽い、民衆こそが貴い」)。これが儒学の基本的な志向だろう。
西欧的な民主主義の考え方のもとでは、各個人は自由に彼にとっての善の観念をもってよいとされる。自由主義である。しかし、善の観念は自然に生まれてくるものでもない。複数の善の観念の間で迷うこともあろう。行動の指針も必要であろう。個人はどのように善の観念をもったらよいのか、あるいは磨いたらよいのか。この場面でやはり東洋思想の出番がある。
厳しい現実の中で、残念ながら中国ではこの理想は実現することはなかったようだ。わが国の、保科正之による4代将軍家綱治世下の文治政治が、儒家の理想の数少ない実現例であろうか。
西欧では、商工業者の勢力の拡大を背景に、民主主義思想が整備され、徐々に人民主権の制度が整っていった。統治権力を憲法により管理し、恣意的な政治を抑える制度の構築に成功した。統治者が凡庸であっても一定の政治の品質が保たれるようになっている。
専制政治の古代中国にあっては王の教育が何より重要であったが、「国王は君臨すれど統治せず」民主主義制度の下ではさして重要ではない。しかし、行政の責任者やその周辺の人々の教育に対する必要性は、高度に複雑化した現代、再び高まっている。彼らの行動次第で瞬時に国民が大災難に襲われうるのが現代である。
ここに東洋思想のひとつの出番がある。指導的な立場にある人々のあるべき心構え、振る舞うべき仕方に対する詳細な検討が東洋思想、儒学(とりわけ12世紀以降の新儒学)にはある。
西欧的な民主主義の考え方のもとでは、各個人は自由に彼にとっての善の観念をもってよいとされる。自由主義である。しかし、善の観念は自然に生まれてくるものでもない。複数の善の観念の間で迷うこともあろう。行動の指針も必要であろう。個人はどのように善の観念をもったらよいのか、あるいは磨いたらよいのか。この場面でやはり東洋思想の出番がある。
by omg05
| 2017-12-02 08:03
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