チザムについて(写真はブラウン大学)。
Matthew Davidson , "On Roderick M. Chisholm"
(http://philosophy.csusb.edu/~mld/Chisholm2.doc)
Roderick M. Chisholm (1916-1999) was one of the most important philosophical thinkers of the 20th century. His influence on epistemology (the theory of knowledge) and metaphysics cannot be understated; indeed, it is difficult to conceive of what these fields would be like today without the impact of Chisholm. Were there a Nobel Prize in philosophy, Chisholm surely would have won it.
Chisholm graduated from Brown University in 1938 and completed his Ph.D. at Harvard in 1942. After finishing his dissertation, "The Basic Propositions of the Theory of Knowledge", he entered the U.S. Army. After a short stint in infantry training, he received training in clinical psychology and did work at Army Hospitals in the southern United States.
After being discharged in 1946, Chisholm returned to Brown University where he taught until his death in 1999. During this time, he published hundreds of articles and many books, including Perceiving (Cornell University Press, 1957), three editions of Theory of Knowledge (Prentice Hall, 1966, 1977, 1988), Person and Object (George Allen and Unwin, 1976), The First Person (Minnesota University Press, 1981), and A Realistic Theory of Categories (Cambridge University Press, 1996).
Chisholm was perhaps known best for his attempts to bring clarity and rigor to philosophical thought. Philosophical analysis for Chisholm involved very precise, clear definitions of key concepts. In fact, the most widely-used term that comes from a philosopher's name is the verb "to chisholm."
The Philosophical Lexicon (http://www.blackwellpublishing.com/lexicon/) has the following entry:
[to] chisholm, v. To make repeated small alterations in a definition or example. "He started with definition (d.8) and kept chisholming away at it until he ended up with (d.8'''''''')."
One often will read sentences like "This idea needs some chisholming" or "This claim might make sense, but it would take much chisholming to see that it does." Another well-known term is a Chisholm-Style Definition. I've heard many times at conferences people ask for a Chisholm-style definition of some concept they found obscure. ・・(この後、教え子たちの証言など興味深い記述が続く。著者は、もし哲学にノーベル賞があったなら、チザムが受賞者だ、と述べている)
わたしにとって興味深い紹介。
知覚に関する吟味はアメリカ哲学において現在なおポピュラーなテーマの一つだが、その祖の一人がチザム。長らく「観察の理論依存性」テーゼに邪魔されて(?)、知覚の分析の意義がよく分からなかった。なんやかや言っても、たしかに知覚は世界との接触の基礎だ。赤ん坊はまず知覚を通じて世界と接触する。
実例との相互調整を通じて適切な基準がえられる、という結論は穏当なところだろう。また、(知覚において)真正の知識の実例をもっているという立場は、最近ではJ.Pryorがとっているものだ。「見たもの、聞いたもの、感じたもの、記憶しているものー知覚報告が知識。特定のケースで疑う理由がでてくるまで、知覚と記憶は知識とみなされるべきだ」というのはPryorの「ドグマチズム」そのものだろう。
うっかりしていたが、チザムについては翻訳もいくつかあるようだ。
「知覚―哲学的研究」 勁草書房
(Perceiving : A Philosophical Study)
「人と対象」みすず書房(PERSON AND OBJECT)
「知識の理論」培風館
(Theory of Knowledge, first ed.1966)
世界思想社(第3版)
(Theory of Knowledge, third ed.1989)
追記(2018/2/19)
R.M.チザム(上枝美典訳)「知識の理論 第3版」(世界思想社、2003年)をあらためて概読中。第3版は「ゲチエ(1963)以後」の展開の中で書き直されたもの。たしかに新訳に意味がある。訳者上枝氏によるすぐれた解説が参考になる。いくつか気づいた点があった。
まずは勉強。チザムは内在主義者にして基礎付け主義者。いずれの立場においても標準的な定義から少しずれるようだが、ここでは内在主義に注目。
内在主義とは標準的には、「ある信念が正当化されるとき、正当化のすべての要素が認識者にアクセス可能である」と要求するもの(バンジョー)。それ以外の立場が外在主義。チザムは内在主義者だから(上の要求にさらに二つの要求を加えるかなり強い意味での内在主義者)、「正当化のすべての要素が認識者にアクセス可能」としている。しかし、これは可能か。信念を支える正当化ー証拠をぎゅっと心の中で捉えることができる、そのために心の外の事柄は関係がないとしているわけだが、それでOKか。OKではないのでは?とする議論がある。
上で定義した外在主義を認識論的外在主義と呼べば、それとは別のタイプの外在主義がある。意味論的(もしくは、心的内容についての)外在主義である。それは、主体Sがもつ信念の内容は、Sが意識していない外的要素により決定されるという立場である。これを支持する2種類の議論がある。
(1)信念に含まれる語の意味は外在的に決定される(パトナム)。
(2)信念の内容そのものが外在的に決定される(バージ)。
(1)は語についての主張、(2)は語を一部として含む文についての主張、という違いだけのようである。ここでは(1)のパトナムの有名な議論を述べる。
双子宇宙の話
伝統的意味論の2つの前提
A.語の意味を知ること=ある特定の心的状態(内包的意味)にある
B.(内包としての)語の意味が、その語の外延を決定する
これらの含意:語の外延は心理的状態(「心的内容」バージ)の関数
つまり、一つの心理的状態(内包、心的内容)には一つの外延が対応する
これは誤り
なぜなら、次の双子地球を考える:A氏は地球にいる。B氏は双子地球におけるA氏の分身。両者の心理的状態は完全に同じ。
二つの惑星の唯一の違い:「水」は地球ではH20をあらわす。双子地球では「水」はXYZという化学組成をもつ物質をあらわす。
この場合、同一の心的状態(水)に異なる外延が対応する。
結論、語の外延(意味reference)は心の中の状態のみでは決まらない。
よって、AかBのどちらかが誤り。
結論を言い換えれば、信念の意味内容はその信念を持つ人の内在的視点からは確立できない。
チザムは、標準的な内在主義に含まれていない次の2つを要請する。
1.認識者は自分が持つすべての信念状態を内省だけによって知ることができる。
2.認識者は自分が持つすべての信念状態について、それがどのような認識的価値を有するかを内省だけによって知ることができる。
チザムの内在主義は「強すぎる内在主義」と呼ばれる。上の議論はたしかにこれに対する批判として有効なように思える。
解説の最後にチザㇺのスタイルについて、私にとって興味深い記述があった。それは「簡潔な定義を最小限の説明を伴って積み重ねていく」独特のものであった、チョークを使った彼の授業もこの通りのものだったということを何人かの弟子たちが証言しているとのこと。チザムは長くブラウン大学で教鞭をとり、アーネスト・ソウザは彼の教え子とのこと(ソウザの教え子がジョン・グレコ)。別のところで書いたが、2000年の秋から2001年の春までMITで学んだ折、私にとってとくに印象的だったのは、ジョン・ギボンスの認識論の授業だった。ギボンスは、出版したてのソウザとキム編のアンソロジーをテキストに、そのなかからいくつかの論文をピックアップし、それこそチョークを使って黒板で議論を展開していった。少しづつ語を定義しつつ話を組み立てていくself-completedなやり方は数学の授業を思い起こさせるもので、哲学でこのタイプの授業を行うとは!と感心したものだった。ギボンスはブラウン大学でキムのもとで学位を取得したと言っていたと記憶している。あのアンソロジーの編集の手伝いをしていたのかもしれない。ギボンスのスタイルがチザムの授業スタイルを受け継ぐものだったとすれば、いろいろふに落ちる。(写真はチザム、ネットから拝借)
追記(2018/3/5)
ローレンス・バンジョー、アーネスト・ソウザ(上枝美典訳)「認識的正当化ー内在主義対外在主義」(産業図書、2006年)を概読。
バンジョーはこの本の中で内在主義者&基礎付け主義者。認識論的位置はチザムに近い。ソウザはその反対者、外在主義者。私の関心にもよるが、すんなり読めたのは、ボンジャーによる第1章「遡行問題と基礎付け主義」くらい。ソウザによる第9章「徳認識論」は興味をもって読もうとしたが、かなり苦しい。ソウザはスマートで読みやすい文章を書く人と考えていた。かなり意外。苦戦したのは、私がボケてきたせいと思う。時間をかけノートをとりながら読めば別の印象になったかもしれない。
ごく粗い要約(再構成)
<ある信念が正当化されている>:しばしば知識の定義の必要条件の一つとして要求される
そもそも、任意の信念について、それが正当化されていると言えるのか?という問題提起がある。懐疑論的問題提起である。
すべての信念は正当化されていない、は常識に反する、問題提起者の立場そのものに問題がある、と懐疑論をとりあえず否定。
(多くの信念は正当化されるとして)<ある信念が正当化されている>をどう定義するか?この問題を考える。
ボンジャーの回答:その信念は、それ自身正当化されていて心の中でアクセス可能な知覚、反省経験などの基礎から(ア・プリオリな推論、最善な説明原理を使って)導ける
(内在主義的基礎付け主義)
ソウザ:正当化には信頼性(顕微鏡などこれまで偽な信念を導かなかったツールを使って形成された)等外的要素が必要。ただ、信念が正当化されるためには、それが認知的徳により形成されることが不可欠
(第9章)2種類の正当化を定義:アプト正当化、アドロイト正当化
これらを使うことにより懐疑論的仮説がもたらす混乱を説明可能
徳認識論(virtue epistemology)VE(十全なそれではない)
V理論:VアプトもしくはVアドロイト
Vアプト:あらゆるwにおいて、Bがwにおいて「アプト正当化(apt-justified)されるのは、wにおいてBが、「その世界wにおいて」有徳に高い比率で真の信念を生み出す一つまたは複数の知的徳の働きから生ずるときに限る。
Vアドロイト:あらゆるwにおいて、Bがwにおいて「アドロイト正当化(adroit-justified)されるのは、wにおいてBが、「私たちの現実世界で」有徳に高い比率で真の信念を生み出す一つまたは複数の知的徳の働きから生ずるときに限る。
*前者は新悪霊問題をうまく処理できない。
(「私はいま走っている」という信念を考えよう。現実世界においてこの信念はアプト正当化される(信頼できる知覚によりそれは形成されている)。私がBIVである可能世界では、アプト正当化されない(BIVである私は知覚によりその信念を形成しているが、この世界ではBIVの知覚は信頼性をもたない)。BIVである可能性を提示されても、なお「私はいま走っている」という信念が正当化されるものであることが望まれるが、それをアプト正当化は与えない。VアプトはBIV懐疑に対し耐性をもたない。後者ーVアドロイトは耐性をもつ)
V理論は十全ではない。しかし、認識的正当化を少なくとも部分的に明らかにする。
より完全な徳認識論:V理論 プラス 安全性(pを信じていればPは真)、信頼できる徳(reliable virtues)、認識的視野(epistemic perspective)
注14:信念的上昇、正当化を求めるのに、「すべて」の段階において、次のもっと高い段階へ上昇することを要求するのは馬鹿げている。
しかし、メタ信念B'が、たとえB'は正当化されていなくても、対象信念Bを正当化するのを助けるというのも、おなじくらい馬鹿げている。
正しい認識的地位や信念の価値が実際に要求するのは、むしろ、それが十分に包括的で整合的な信念集合の部分であることである。
ソウザは純然たる外在主義ではなく、内在主義に好意的な外在主義(適切な正当化に知的徳により形成されたということを要求する以上、かなり内在主義的)
濃淡の違いはあるものの、バンジョー、ソウザともチザムの伝統を受け継いでいるようにみえる。
追記(2018/3/05)
ボンジャーは自らの認識論の立場ー内在主義的基礎付け主義ーを導入するにあたり、遡及問題(アグリッパのトリレンマ)を使っている。信念の正当化を試みるとき、別の信念による正当化が求められる・・という議論だ。3つの道のうち、無限遡行と循環を排して、基礎信念で停止する道を正しいものとして擁護している。その際、考える信念を経験的信念に限定している。この場合のアグリッパのトリレンマはヒュームの議論にほかならない、というのが私の考え。ヒュームの議論から生まれたのが帰納の問題(ヒュームの問題)。ボンジャーたちが扱っている正当化の問題は帰納の問題に他ならない!帰納の問題には「偽問題説」「正当化不可能」説等があり、1950年代に認識論の中心問題の地位を失ったとされる。しかし、信念の正当化の問題として見かけを変えて認識論の中心問題の一つであり続けてきたことになる。
追記(2018/3/6)
第1章 遡行問題と基礎付け主義(バンジョー)
「1.1導入」のメモ(備忘録)
実在論的真理概念が正しいと仮定(以下、真とは実在論的なそれと仮定)
経験的信念についての正当化問題に限定
「この種の信念について、私たちが事実上どのような理由を持っているかを説明しようとすると、あるいは、どのようにすればそのような理由を持つことが可能かということを説明しようとすると、そこにはよく知られた、きわめてやっかいな困難が姿を現すのである」
「近年の、ほとんど例を見ない認識論の活況は、主としてこの問題に対する反応である。1980年代前半からの十数年、認識論の爆発とでも呼ぶべき状況が訪れ、かつてないほど多くの新説が出され、精緻化され、議論され、批判され、そして少なくとも大多数の哲学者たちによって、手に負えないものとして打ち捨てられた」
認識論の死への言及:「多くの人が導き出した結論は、認識論は瀕死の状態にあるので、良識ある哲学者はさっさと見切りをつけるべきだという悲観的な結論であった。この結論は、私にはひどく性急なものとしか思えない」
「最近の認識論の議論は、そのほとんどが、二つの二項対立の周辺に整理されてきた。正当化の基礎付け主義てき説明VS整合主義的説明、正当化の内在主義的説明VS外在主義的説明、4通りの組み合わせあり。
歴史的に標準的な立場:内在主義的基礎付け主義(デカルト、ロック、ヒューム、カント、エアー、ルイス、チザム)
最近の認識論の中心的動向:ここからの大々的撤退
バンジョー:内在主義的整合主義を擁護してきた。立場を変更する。内在主義的基礎付け主義を捨てるのは重大な誤り!代替案はきわめて不十分、標準説のもっとも重大な問題の避け方が見えている
本論文の目標:認識論上の罪の告白(以前の立場は誤っていた!)
認識論の中心問題:私たちの信念は、もし可能ならば、どのようにして正当化されるだろうか?
もっとも単純明快な答え:露骨な懐疑主義ー正当化は事実上存在しない
バンジョー:直観的、常識的にも明らかにこれは間違っているように思える(もし自分の立場が正当化されると主張すれば、それは自爆)。ただ、単に誤りと「想定」して済ますことはできない。
条件的な(推論的な)理由reasons
遡行問題epistemic regress problem
3つの選択肢
1.どんな理由も正当化もない信念で停止:懐疑主義者の見解が正しいと思われる
2.循環を許す:やはりダメ
3.最終的な前提信念はたしかに正当化されている。ただし、条件的、推論的な理由に訴えない。したがって、新しい前提信念を要求しない。基礎的な信念で停止:基礎付け主義(基礎的信念は、感覚的・内省的な「経験」に訴えることにより正当化される)バンジョー:この立場3を擁護
伝統的基礎付け主義への反論
1.基礎的信念から物理的世界についての信念を本当に正当化できる?
2.基礎的信念はどのようにして正当化され、認識的に受け入れられるものとなる?(難問)
「いま私が明白で正しいと信じているのは、基盤的・基礎的信念が、結局、経験に訴えることによって正当化される、ということである」
知識という概念:本書では避ける。正当化に集中。
どの程度の正当化?誰もが納得できる正当化の程度を確定できた人はいないし、それを真剣に試みた人さえほとんどいない。知識の弱い概念、知識の強い概念(ただちに懐疑主義に陥る)
知識より正当化に集中したい。伝統的な認識論のすべての中心問題は、事実上、この取り扱いで十分に対処できると確信する。
*細かく見ているわけでないのであやしげであるが、「信頼性」について訳注があってもよいかも。第9章冒頭のVa, Vbは条件文、直説法それとも接続法?(接続法条件文のように思える。原文が手元にないので今のところ未確認)
追記(2018/3/06)
チザム、ボンジャー流内在主義(あるいはソウザ流徳認識論)と王陽明の「良知」説との間に共通するものがありそうだ。王陽明(1472-1529)は、内在主義の祖デカルト(1596-1650)より前の時代の人。マテオ・リッチ(1552-1610:イタリア人イエズス会員、中国で布教、明の宮廷で活躍)経由でデカルトが陽明のことを耳にしていても不思議はない、知らなかった方が不思議か。陽明が西洋哲学の転換点に一定の刺激を与えていたとすればおもしろい(デカルトの良識は「この世でもっとも平等に分配されている」ものであり、「よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力」とのことだから、良知にかなり近い)。いろいろな異同を議論できそうだ。異の方がずっと多い、そもそも議論の意図、脈絡が大きく異なる、という結論になりそうではある。この比較論に意味があるとしたら、良知説の動力学的、実践的性格をより浮き上がらせることができるという点だろう。(追記(2019/10/23) ここで述べた論点(推測)は、拙稿「ぶらソフィア」で再論されている。「宋学の西遷」参照。なお、私がマテオ・リッチに関心をもったきっかけは、2017年9月の「日中哲学フォーラム」(立命館大学)での王さんの講演の聴講。私が彼女のコメンテーターだった。王陽明に対する関心は、高校の同窓会で、恩師荒井桂先生が安岡正篤記念館(埼玉県嵐山町)の所長をされていることを知ってから。安岡正篤は名高い陽明学者)
追記(2018/5/05)
デカルトは「良知」を駆使し、実に多くの命題を心から導き出している。コギト、神が存在すること、(神の誠実ゆえ)たいていの常識が正しいこと(知覚、理性、数学の教えることが正しいこと)、世界が思惟と延長という2種類の実体から成ること、それ故人間も思惟する自動機械という二重存在であること、思惟に属する魂は不死であること等である。大いに「格物」しているというべきか。