哲学とは何か |
という楽しいブログを見つけた。そこに、「哲学とは何かー定義の試み」という興味深い記事があった。以下は、それを読んで考えたこと。
著者があげる哲学の定義の候補は次の4つ。
定義1:哲学とは、全ての知識の体系ないし、そのような体系の基礎となるそのような体系の基礎的な部分体系(あるいは、このような体系を追究すること)である。
定義2:哲学とは「知の基礎付けは、可能か不可能か」という問に答えようとする試みである。
定義3:哲学とは、問題を立て、その答えを探求することである。哲学とは、最も基礎となる知であろうとそれ以外の知であろうと、(基礎付けが可能であることが確認されない限り)、知や理論のことではない。
定義4:哲学の課題は、哲学的な問題が擬似問題であることを示すことである。
定義1は、デカルトに代表される古典的定義(デカルト的基礎づけ主義の破綻とともに、大方はこれを断念)。 2はかなり狭い(大方は、不可能である、という解答)。4は、ウィトゲンシュタイン後期の哲学観(言語の誤用によって発生するのが哲学の問題)。
著者が採用するのは定義3。
この哲学観をもつポパーと定義4のウィトゲンシュタインとの激烈な接触については、以前このブログでも触れた。
私も定義3に同意。著者の見解を私なりに拡大敷衍すると、おおよそ次のようになる。
(「哲学の森」ブログでコメントさせていただいた。次は、そのプラスアルファ再録版)
愛用してきたイヤフォンがこわれた、新しいイヤフォンは何がいいだろうか、おいしい蕎麦を食べたい、どの店に行こうか、いま何時だろう、などの身の回りの問題を「日常的問題」と呼ぶ。
これに対し、イやフォンがよいとは何だろう、蕎麦がおいしいとはどういうことだろう、時間って一体何だろう、過去はどこにあるのだろう、そもそも物や事柄があるとはどいうことだろう、私はどこから来たのだろう、私は誰だろう、本当に私は私なのだろうか、私はどうあるべきなのだろう、
そもそも「べきである」の根拠はどこにあるのだろう、・・・といったわれわれの活動の周辺ないし限界付近で発生する問題を「哲学的問題」と呼ぶ。
われわれの発動はたえず拡大・深化しているが、最前線が伸びるだけで、限界がなくなることはないだろうから、「哲学的問題」が消滅することはない。なくなることがないのは、「日常的問題」も同じ。
哲学とは、そのような「哲学的問題」を解こうとする活動である。
われわれの活動の「限界」を明確に定義していないから、日常的問題と哲学的問題の境界はファジーであるが、ファジーでかまわない。
「限界」をゆるやかにとれば、多くの問題が哲学的問題になる。
私は「ゆるやかにとる」派。(みんな「哲学」してるのだ!)
この場合、科学、技術、数学、文学、映画、宗教、スポーツ等と「哲学」は接点を多くもつことになる。
このような哲学理解において、「哲学的」とは「(生や知の)限界の突破を志向する」という意味であることになる。この志向が人間本性に潜在している、ということは歴史が証明している。われわれは、パンを必要とするとともに、イデアにあこがれる存在でもあるのだ。