柳沢峠 |
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2022年 11月 22日
少し前青梅街道(「甲州裏街道」)を、青梅から塩山(甲州市)までドライブした。ここは中里介山の名作「大菩薩峠」の舞台。中里介山は羽村(東京都)出身。玉川上水取水場近くで生まれたとのこと。わが家に近い。写真は柳沢峠から見た富士山。
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by omg05
| 2022-11-22 12:44
| travel
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2022年 08月 10日
2022/2/14 R.E.ルーベンスタイン「中世の覚醒ーアリストテレス再発見から知の革命へ」第6章を読む。1260年代後半からのパリ大学学芸学部を舞台とする「キリスト教正統思想Vアリストテレス哲学」の論争、闘争を詳しく解説してくれている。私が知りたい内容だった。・・全編読了。大きな物語として中世哲学、「アリストテレス革命」を読めるのはありがたい。「訳者あとがき」が指摘するように、ボエティウス、アベラール、ブラバンのシゲルス、異端カタリ派の物語は魅力的だった。 3/07 アリストテレスの存在論を確認したいと考え、解説書等を探す。詳細に知りたいというわけではないので、新書がよいと思い探すも、うまく見つからなかった。プラトンなら藤沢令夫さんのものがあるのに・・。困ったあげく、手元にある岩崎武雄「西洋哲学史」アリストテレスを再読してみた。以前何度か読んでいたはずだが、今回は目的をもった精読。私が求めていた文章だった。私の目的にとってとりあえずこれで十分。さすが大家、簡にして要を得た記述、と感嘆。 3/10 講義ノートの見直しをしている。ロック「人間知性論」(岩波文庫)。大槻春彦さんの詳細な註、解説に恩恵をこおむっている。多謝。ロックはフツウすぎて、おもしろみがないなどと不遜な考えが少しあったが、このたび大いに反省。認識論の草分け。生得原理の否定等、大変なエネルギーを費やしている。デカルトも更地化の議論を彼のやり方でおこなったが、ロックの更地議論も大変だったろう。グランドゼロの確保の試み。 デカルトとの比較。デカルトは論証者であり、各命題を一歩一歩論証している(数学者然)。魂の不死の論証が彼の最終目標だった。ロック:自らの心を省みている(省察している)のはデカルトと同じ。ただし、冷静な観察者であり、各命題を論証できるかどうかその都度確認している(外科医然)。論証できると認められる命題だけを「知識」と認定している。確実性に程度を認めているのも印象的。(間違いの可能性を許容する確実性。私はこれを「現実的確実性」と呼んでいる)。福音書に含まれる道徳諸原理を論証するのが彼の悲願だったようだが、念願にとらわれることなく、それを断念している。さすが「穏健で冷静なロック」。 3/12 石川文康「カント入門」(ちくま新書)を読む。再読かな。とくに最初の3つの章が参考になった。アンチノミーの位置づけをほぼ同様に理解していたから、勇気づけられた。カントが真理を解き明かした、という述べ方が途中からはっきりしてきて(とくに時空理解)、気になった。(たとえば「このようにアンチノミーの解決をとおして、カントは空間と時間が主観(感性)の性質であって物それ自体の性質ではないことを、間接的に証明した」(p.88)といった言い回しが気になる。私の感じでは「間接的に論証しようとした」が穏当な表現。時空が主観の性質であるという主張は今日一般的ではないと思う)。道徳論を経て、第三批判、宗教論で終わるが、第三批判、宗教論について不案内だったので、勉強になった。ご自分の頭で理解、咀嚼し、自分のものとしてカントを説明、紹介してくれていることに感謝。 3/15 山本芳久「トマス・アクィナスー理性と神秘」(岩波新書)第1章「トマス・アクィナスの根本精神」を読む。非常に明晰に書くお人だ、と著者に感心。私の現在の関心では、第1章だけでよさそうだ。「知性」と「理性」の区別など、他で知っていたことだが、ていねいに説明されており、勉強になった。トマスの著作の量に驚く。モーツアルトはほぼひっきりなしに作曲していたそうだが、トマスも同様な天才だったようだ。 3/25 ヒューム(斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳)「人間知性研究」第12章「アカデミー的あるいは懐疑的哲学について」を読む。原書を見ていたが、邦訳―現代日本語訳はやはりよい。「人間知性研究」の見事な終章と感心。127には懐疑論者の主張が過不足なく要約されている。最後のパラグラフは、有名な「その書物を炎に投ぜよ」。人間知性についての論考だけだが、コンパクトだし、文庫に入れる価値が大きいと思う。 訳者の一人一ノ瀬さんによる「解説」を読む。いつもながら勉強になった。ただ、「因果性の議論こそがヒューム哲学のアルファでありオメガである」という主張には違和感をもった。私は、帰納批判(ピュロン主義的結論を導く懐疑論的論証)がヒュームのコアであり、因果批判は帰納批判の一部として行われた、と考えている。因果批判が自然宗教批判の主な武器というのはその通り。因果概念が古代以来さまざまに検討されてきた伝統を念頭に置くと、私の理解は表面的であるのかもしれない。私は因果批判には脅威を感じない。因果に基づく信念(たとえば、デザイナーとしての神の存在についての信念)をもっていないからだ。帰納批判には脅威を感じる。「一寸先は闇」は困る。 3/26 アリストテレス「形而上学」第12巻を読みはじめる。確認のための読書。この巻に「第一の不動の動者」が登場する。リ―ゼンフーバーさん「西洋古代・中世哲学史」のアリストテレスの項で事前確認。大体了解。例によって註で確認しながらの読書。註はありがたし。読む前に言うのもヘンだが、たいへんな本と感嘆。少しづつ読む。読む前にと書いたが、思い起こせば院生時代、あるセミナーで本書が使われていた。当時私は古代哲学に関心がなく、よい学生ではなかった。若気の至りと反省。 「形而上学」下巻にある訳者解説を読む。アリストテレスおよび本書についてポイントを知りたいのだが、その期待に応えてくれる。この解説があれば本文を読み進めていくことができそうだ。隠居の立場で勝手なことを言わせてもらえば、「形而上学」と「神学大全」は哲学科の学生諸君の必読書。講義ないしセミナーで必ず扱うべき書。 調べものをするとき、日本語サイトで間に合わない際には英文サイトをみる。近年Google翻訳の精度がとみにあがっていると感じる。哲学のサイトであっても、かなりわかる。不明な部分は英文をみればよい。ある程度知識があれば、英文サイトを日本語で読み、理解できることになる。これはめざましい進歩。 3/29 「以上の原理に納得しつつ、書斎の本にざっと目を通すとき、われわれはどんな破壊をなさねばならないだろうか。もしどれかの書物、たとえば神学あるいはスコラ形而上学の書物を手に取ったなら、こう尋ねてみよう。それは量や数に関するなんらかの抽象的推論を含んでいるか。否。それは事実の問題と存在に関するなんらかの実験的推論を含んでいるか。否。ならば、その書物を炎に投ぜよ。なぜなら、それは詭弁と幻想しか含むことができないのだから」(斎藤・一ノ瀬訳「人間知性研究」34ページ) 「人間知性研究」の最後に登場する有名な文章。ヒュームは、「事実の問題と存在に関するなんらかの実験的推論(experimental reasoning)を含んでいる」本ー自然科学の本だろうーは燃やしてはいけないと言っている。経験に基づく推論は理性では正当化できないとヒュームは述べている。「実験的推論」は経験に基づく推論とは違うという可能性と同じという可能性がある。後者なら自然科学の本も火にくべよ、となりそうである。ヒュームはそうは言っていない。ということは、ニュートンやボイルたちの「実験的推論」を「経験に基づく推論」(「人間本性論」や「人間知性論」が考察の対象としていた)とは別のものと見ていたことになる。本当にそうか。 3/31 「人間本性論」の副題は「実験的探求方法を精神上の諸課題に導入する試み」である。ヒュームはHuman Natureのニュートンたらんとしていた。ニュートンの「実験的探究方法」を肯定していたことになる。ヒュームが批判対象とした「経験に基づく推論」は、ヒュームの心根では「実験的推論」とは異なる認識方法だった、と言いたくなる。この仮説をもとにヒュームを読み直してみたらどうなるだろうか。 4/01 神学的真理と哲学的真理の関係についてトマス・アクイナスと対峙したブラバンのシゲルス(ラテン・アヴェロエス派)。彼は発狂した秘書により刺殺されたとされる。他の説もあるようだが、教会に追われて謎の死を遂げたのは間違いなさそうだ。ダンテの 『神曲』(1320年)において、シゲルスは、慎重さ、正義、節制、そして不屈の精神の例であるとされ、賢者の住む第4の楽園の領域に位づけられているということを知った。うれしくなり、『神曲』を入手。ついに『神曲』を手にするとは、と我ながら驚く。 4/07 ラッセル(市井三郎訳)「西洋哲学史1」を読んでいる。原書はもっていて必要に応じて読んでいたのだが、日本語訳はやはりありがたい。通読ではなく、現在の必要からトピックを選んで読んでいる。プラトンからはじめてアリストテレス、懐疑学派、ストア派と読んでいって、ソクラテス、ヘラクレイトス、パルメニデス、ミレトス学派と進んでいって、さきほどピタゴラスまで到達。アリストテレスの論理学の解説は興味深い。論理学者にして分析哲学の創始者の一人によるアリストテレス論理学、哲学評価は参考になる。しかし、何と言っても感心したのはさきほど読んだピタゴラス。この章は「彼は知的にいって、かつて生を享けたことのあるひとびとのうちでもっとも重要な人物の一人であった」という評からはじまる。細部には立ち入らないが、ラッセルでなくては書けない章と感じた。「ライプニッツ」も興味深い。最上の西洋哲学史の一つ。 4/14 「知の分光学」(1987)再読。Dictionary of the History of Ideas(1968、1973)から懐疑論関係の記事を訳出したもの。デ・レイシー「古代の懐疑主義」、ポプキン「近代の懐疑主義」とも短くよくまとまった解説。 6/13 Hume's principle
The principle that the number of thingswith the property F equal the number of things with the property G if and onlyif there is a one-to-one correspondence between those that are F and those thatare G. The attribution to Hume derives from the discussion in Treatise, i. 3.1: ‘When two numbers are so combined as that the one has always an unitanswering to every unit of the other we pronounce them equal; and it is forwant of such a standard of equality in extension that geometry can scarce beesteemed a perfect and infallible science.’ The principle was central to Frege,and the ‘neo-Fregean’ approach to the philosophy of mathematics hopes to definethe idea of number on the foundation it provides. (TheOxford Dictionary of Philosophy) 第20回ICPICTokyo Conference@立教大学(8/8-11)に参加中。P4wC(Philosophy for and with Children)の国際学会。初日は都合がつかなかったが、2日目参加、立教大学に行く。教室とオンライン二刀流。今日はオンライン参加。 朝のシンポジウム「哲学教育とマスメデイアの役割」を視聴。NHKプロデューサー(Q~こどものための哲学担当)、毎日小学生新聞編集長、国立教育政策研究所「道徳科」担当者(?)氏が登壇、話をされた。用事ではじめの部分を聞けなかったのが残念。これまで経験したシンポジウムの中で、私にとっては最も有益だった。みなさんよい仕事をされていると感心。 私はうっかり者、道徳科を(原則として)担任教員が担当することは知らなかった。大学で哲学の授業を担当しているが、教職につく受講生諸君は全員道徳科、「考える道徳」「哲学対話」を担当することになることは知っておくべきことだった。国立教育政策研究所の方は、facilitator役でよい、「こたえは一つではない」ことを理解していればよい、とコメントしていたが、担当者としては、哲学のバックグラウンドをある程度もっていないと不安だろう。 「哲学対話」は小学生には受け入れられそうだが、中学生(高校生)となるとどうか、というのが私のかねてからの危惧。私を含め日本人学生の多くはシャイ、教室内で発言するのも勇気が必要。ただ、子どもたちにさまざまに考え、友人たちのさまざまな意見に接する機会を与えるのは、将来の日本社会にある種の柔軟性をもたらす可能性を秘めていると思う。 小中学校の教員の(ほぼ)全員が「考える道徳」を担当するというシステムは、かなり革命的。私の考えでは、考える道徳とはすなわち哲学、「哲学」に抵抗がある保守派の人々も「道徳」ならOKという事情があり、このシステムの導入成功に至ったのだろう。劣勢に立たされていたわが国の哲学が、いつのまにか島に上陸、旗を立てていた。この情勢に気づいている人はどのくらいいるだろうか。 9/05 「秘本哲学講義録」のアップをはじめました(https://philia16.blogspot.com/)。「第1夜 プラトンーわれわれが見ているのはイデアの影である」。ほぼ草稿状態で、少しづつ推敲していくつもりです。ご批判を歓迎します。 9/11 学会から案内があった、日心シンポ「高校「倫理」における心理学教育の導入:心理学者と哲学者の対話」を視聴した。日本心理学会のシンポジウム。河野哲也さんの講演に関心があり視聴。来年度からスタートする公民科「倫理」の中に,心理学の内容が従前以上に導入されることにあわせて行われたシンポとのこと。話を聴いてみると、青年心理プラスアルファで心理学が扱われる程度で、大きな変化はないかなという印象。哲学の側から、哲学者の名前数を減らしてほしいともとめたそうだが、受け入れられなかったようだ。河野さんの哲学対話の話は参考になった。ただ、相変わらず「先哲」が多く登場する教科において、哲学対話の活躍の場を多くとれるかについて心配になった。心理学者の人からの「生徒の自己開示への配慮についてどう考えます?」は私も気になった。哲学対話において、心を開いて自分のことを話すケースがでてきそうだが、それはいやだ、ほっておいてくれ、という高校生は多いのではないか。中学生についても同じかもしれない。 11/01 カントについて再勉強中。野田又夫「西洋哲學史」のカントの節を再読。短い紙数の中カントが簡潔にまとめられている、と感心。続けて、世界の名著シリーズの「カント」(1972年)巻頭の野田又夫氏の解説を読む。カントの全体像、とくに「批判」以後の彼の「形而上学」の意味を知りたくて読みはじめた。有益な読書になった。このレベルの解説がついているのなら、他の「世界の名著」も読みたい。「純粋理性批判」は形而上学批判という意味である、等随所にかみ砕いた解説がなされていて、野田さんはスマートなお人と感じ入った。独断的形而上学ではない「批判」以後の「形而上学」ー自然の形而上学、道徳形而上学、人倫の形而上学ーは、「批判」の論点を踏まえた、魂や自由、神等についての議論、程度に理解すればよいようだ。「批判」の論点を踏まえた、とは、それら形而上学的対象については理論的(経験的)認識は不可能、ということ。これは、今日の哲学者の多くが受け入れている考えだろう。理論的認識は不可能、では何が可能かというと、道徳的意識に基づく要請なり仮説として述べることが可能とカントは考えていたようだ。道徳的意識のコアー具体的には定言命法(「ウソをつくな」等の無条件的命令)についてはカントは(真な)ア・プリオリな綜合判断と信じていて(「理性の事実」と言っている)が絶対確実性をもつことを放棄していなかったようだが、それ以外は仮説ないし要請だろう。要請は願望かな。理性の事実という信念をはずせば、カントの形而上学は現代のそれになる。 道徳形而上学についてはある程度わかった気になったが、自然の形而上学についてはのみこめていない。 「すべての出来事は時間空間の中で起きる」や「およそ生起する一切のものには原因がある」(因果律)は形而上学におけるア・プリオリな総合判断とされているようだ。これらの判断から構成されるのが自然の形而上学だろうか。しかし、これらは現象界に関する記述ではないか。現象界で成立する一般的判断。仮想界に関わる判断とは、つまり形而上学的判断とはみなせないのではないか。 御子柴善之「カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く」NHKブックス(2018年)を読む。勉強になった。上の記述も要修正か。御子柴さんは正確かつわかりやすく書いていると思った。いままでスキップしていた部分も学べてよかった。目的をもった読書だったが、こちらが年をとったせいか、スイスイとはいかなかった。私は、カント哲学のいくつかの基本的前提に同意しないが、彼の周到さ、がんばりには脱帽。 11/18 確認したいこともあって、石川文康「カント入門」を再読。 1 よく知られた「独断の微睡」。カントは3回この言葉を使っているようだ。「ヒュームが独断の微睡を破った」という「正直な」告白が1回、「二律背反が独断の微睡を破った」が2回。カントが二律背反に気づいたのはいつかが気になる。ヒュームを読んだ後か、それとも・・御子柴さんは「同時に」という言い方をしている。ヒュームと二律背反の関係は?石川さんは「ヒュームの因果律批判がカントを理性批判に駆り立てた」と言っている。そうだろうか? 私見 「ヒュームの懐疑全体(帰納批判)がカントの独断の微睡を破り、彼を理性批判に駆り立てた」 理性 条件づけられたものがあると無条件的なものを求める(カント)
ヒュームの懐疑全体からカントが読み取ったのはこの洞察ではないか。アグリッパのトリレンマ、(その適用である)ヒュームの懐疑は「理性 条件づけられたものがあると無条件的なものを求める」の例。他の例が形而上学(カントが属していた合理主義哲学)の歴史にあると気づき、それを4つのアンチノミー、3つの理念として整理したのでないか。 2 「我々は、自然の経験的法則すなわち常に特殊な知覚を前提するような自然法則を純粋な、すなわち普遍的な自然法則から区別せねばならない」。このほう(後者)の自然法則の源泉は我々の悟性である。悟性が法則を自然に指示するのである(岩波文庫「プロレゴメナ」注285)
われわれが自然科学上の法則と考えているものは、「自然の経験的法則すなわち常に特殊な知覚を前提するような自然法則」であり、「純粋」ではなく(特殊な知覚を前提する)、「普遍的な自然法則」ではないと思う。すると、ほとんどの科学上の法則は必然的とはカントは見ていなかったことになる。「必然性」の範囲はごく狭い(「経験の類推」3つだけ)。これでよいか? 3 「形而上学は学問でなければならない。しかも、全体としてのみならず、そのあらゆる部分において、学問でなければならない。さもなければ、形而上学は何ものでもない」 御子柴さんはこれを文字通りには受け取れないのでは、と言っている。「道徳形而上学」をみると、そうかなと思う。道徳法則のみがアプリオリな綜合判断、それ以外は要請(希望)。 4 カントは伝統的論理学を基礎に分析している。フレーゲやラッセルは(かれらがつくった)現代論理学を基礎に哲学的分析を行った。論理学を基礎に哲学したカントに感心。アリストテレス以来の伝統。 11/23 「ヒュームの衝撃」。私にとってそれは、経験的信念(科学的信念を含む)全体に対する理性の無力を主張している点。カントにとって、その点ではなかったようだ。形而上学(哲学)を展開する能力としての理性(「純粋理性」)の無力さを指摘している点だった。カントにとってヒュームは、純粋理性の無力さ、従ってそれを駆使する形而上学の無意味さを指摘する哲学者だった。 「ヒュームの問題は、原因の概念が正しいかどうか、有用であるかどうか、また自然認識の全体に関して不可欠であるかどうかにあったのではない。じっさい、ヒュームといえどもこれらのことをいまだかつて疑ったことはないのである。そうではなくて彼の問題は、・・・この概念がおよそ一切の経験にかかわりない内的真理を含み、したがってその使用は経験の対象だけに限定されることなく、さらにいっそう広い範囲におよぶのかどうかということである」(「プロレゴメナ」序文) このカントの解釈によれば、ヒュームのターゲットは形而上学にあった、ということになる。カントはそのような哲学者としてヒュームを受け取った。「形而上学者(「純粋理性批判」を書く前と後では内容は異なるが)カント」にとっては当然だったとも言える。 2023/1/03 必要がありカントの勉強は一時中断し、 立川武蔵 「『金剛般若経』 に見られ る「即非の論理」批判」( 論文冒頭を引用 『金剛般若経』には, 「Aは α-A(非A)で あ る. ゆえにそれ はAとい わ れ る」 と形式化 できる表現が幾度も現われ る。鈴木 大拙氏が この種 の表現の中に特殊 な 論理が存在す る と考 えて, それを 「即非 の論理」 と名づけた ことは よく知 られて いる。氏 は, 仏教 の中 には形式論理学 の基本 的法則 に従わ ない, あ るいは, それ を越 えてい る特殊な論理があ り, この ことが仏教 の性格 の重要な部分を物語 る と 考 えた。 そ して幾人かの研 究者は この よ うな鈴木 大拙 の考え方に従ってきた。 しか し, 『金剛般若経』 のか の表現は鈴木 大拙氏 の考 える よ うに形式論理学 の 基本法則に従わ ない ものなので あろ うか。 わたしにはそ うは思われない。 氏 の解 釈では否定辞"α-"の 意味 の採 り方 に問題があ った と思われ る。 そもそ も仏教 の 論議は基本的には形式論理 の基本法則に従 ってい る。少な くとも, 逆説が仏教の 本質を語 ってい るとい うことはない。 仏教哲学系の論文を読むのははじめて。「即非の論理」もはじめて。しかし、細部はともかく、立川氏の議論はわかりやすく、説得力があると思った。 竹村牧男「即非の論理」の宗教哲学 : 大拙と寸心の魂の交流をめぐって(1997年) 2023 1/17 哲学の語源は「知を愛すること」。スイス人のイゾ・ケルン教授は中国哲学に人生を捧げてきた。その愛弟子である中国人が恩師の著作物を中国で無断翻訳・出版するという愚行に及んだ。2023/01/16 ーイゾ・ケルン氏には中国の習近平国家主席と浅からぬ縁がある。習近平は王陽明の思想を賛美している。そしてその偉大な王陽明を中国人に親しみやすいよう初めて紹介したのがケルン氏だった。 国家主席が王陽明の信奉者であると広く知られたため、中国では今、王陽明ブームが起きている。電子版経済誌「中国経済網」によると「わずか10年前でも、王陽明のことを知る人は少なかった」が、現代の中国文化では非常に人気の高い文化的シンボルだという。こうして明代中期の普遍的思想家、王陽明は再評価され、現代によみがえった。その思想は中国哲学全体に多大な影響を与えている。最もよく知られている命題は、「知行合一(ちこうごういつ、知ることと行うことは分離不可能とする考え)」。だがその考えは、個人の良心こそが社会の繁栄への道筋だと解釈することも可能であり、まさに習近平の権威主義体制と合致する。 あらゆる方面から王陽明に光が当てられ、文化ツアーや講演会など多彩なイベントが開催され、書店では一番目立つ場所に王陽明の関連書籍が置かれている。その思想を中国の人々に知らしめる先駆的な仕事をしたのがイゾ・ケルン氏だった。・・ 以前、西洋文明、哲学に対抗する中国独自の価値を精華大学(近平氏出身大学)周辺の人々がもとめていて、陽明学こそそれだと考えているという話を読んだことがある(マルクス・レーニン主義は西洋のもの)。その流れが現在も続いているようだ。私はここしばらく「王陽明」を講義でとりあげている。陽明なら、コロナ死「1人」と発表したり、他国を武力威嚇したりしないよ、と近平氏には言いたい。 #
by omg05
| 2022-08-10 11:27
| philosophy
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